
1819年9月、ドイツ・ライプツィヒ生まれ。父親は当代切ってのピアノ名教師、フレデリック・ヴィーク。母親マリアンヌ・ヴィークはライプツィヒのゲバントハウスに毎週出演する有名な歌手でした。父ヴィークはその他に、ピアノ楽器商、批評家も手がけていました。ピアノ教師としてのヴィークの元には、彼の教えを乞う弟子が引きもきりませんでした。後世に残る演奏家としては、ハンス・フォン・ビューロー、そして、後年クララの夫となるロベルト・シューマンも彼に弟子入りをし、1830年9月~1831年10月の間住み込みでレッスンを受けました。
ヴィークは、独自の指の練習曲を編み出し出版もされています。また、レッスンの基本は決して厳しいだけの指導ではなく、音楽は「楽しむもの」という基本を忘れず、音楽性こそが音楽を奏する上で一番大事なこととの理念を持っていました。そして、それぞれの生徒に適した指導をしていました。2時間以上の練習は効果をもたらさないこと、むしろ散歩をして新鮮な空気を吸うことも大事と説いていました。
筆者もヴィークの指の練習曲を弾いてみましたが、いわゆる各指の独立、連携、レガード(スムーズに音をつなげる奏法)など、あらゆる面での指の訓練が施されています。
日本では世界の潮流とは一線を画し「ハノン教則本」「チェルニー練習曲集」が、かつての時代の、誰もが苦行のように勉強する練習曲でした。また、当代の人気作曲家も練習曲を残しており、すぐに思い浮かぶだけでも、リスト、ショパン、ベートヴェン、モシュコフスキー、モシュレス、と練習曲とはいえ音楽性も豊かな飽きさせない作品が残っています。筆者も、かつての師のご助言から、イタリア人作曲家・ポッツォーリ(E.Pozzoli)の、音楽的にも聴きやすく弾いて楽しい練習曲を生徒さんに使用しています。
父親が当代きっての名教師、その家に育ったクララは、当然のごとく父親にピアノを習い始めます。ピアノの他、和声、対位法など理論も含めて、総合的な音楽教育を父親に師事しました。そして、みるみるうちに頭角を現します。
一般的に、実の親に師事することは、子供に大変な負担を強います。筆者も、数多くのピアノの先生のご子弟を教えてきましたが、大先輩である親から、大きな期待やプレッシャーを抱えたお子さんが多かったと記憶しています。一般的な家庭のお子さんより、高い精神性や才能を求められ、幼くして厳しい葛藤を肌身で感じてしまうものかもしれません。親であり、師であるという、このような二重のプレッシャーを、ヴィーク父娘は、どのように通り越えて行ったのか、たいへん興味あるところです。
父親と母親は性格が違いすぎたのか、1824年、結局のところ離婚をします。クララ、まだ5歳の時ですね。母親は父親の友人と恋愛関係に落ち、その後ヴィークを離れ、この男性と再婚、他の二人の子供は母親について行きました。クララだけが父親と暮らします。初めは、まだ離婚前の母親にピアノの手ほどきを受け、両親離婚後は父親が本格的なレッスンを開始したとされています。
幼少のクララに才能を見出した父親は、同じ畑に生きるものとして、当然のごとくステージパパとなり、次々とコンサートの契約を取っては、クララを舞台に立たせ、その度にクララは脚光を浴び、それが、また次のコンサートへと繋がっていきました。すでに音楽的才能を認められていた、後年クララの夫となるロベルト・シューマンは、1828年、ライプツィヒの精神科医の自宅でのホームコンサートで演奏しました。そこにもう一人、才能ある8歳のピアニスト、クララ・ヴィークが登場。これが、二人の最初の出会いとされています。
クララの演奏の素晴らしさに魅入られたロベルト・シューマンは、それまでの法学の勉強をやめ、クララの父親の門をたたく決心をしました。クララの8歳上のロベルト・シューマンは、ヴィークの自宅に住み込みピアノを学びます。同じ屋根の下、一緒に遊んだり、兄貴分のシューマンがまだ幼いクララの面倒を見る中で、ふたりにはまるで兄と妹のような絆が育って行きました。
その間に、ヴィークのレッスンは日々行われ、ロベルトのみならずクララも実力をつけて行きます。11歳の時は、パリからヨーロッパ各地への演奏旅行ライプツィヒのゲバントハウスでのソロリサイタル、そして、ワイマールではゲーテへ御前演奏をし、ゲーテからメダルと直筆の賛辞をいただきます。また、演奏旅行中にはバイオリンニスト・作曲家のパガニーニが彼女のコンサートに度々登場し、共演もしました。17歳から18歳はウィーンでのソロリサイタルシリーズに登場、様々な、圧倒的に好意的な批評を受けました。クララの演奏を聞いたショパンは、友人の作曲家リストに、彼女の演奏へ最大限の賛辞を伝えました。このようにキラ星のごとくの当時の作曲家たちに認められ、華々しい演奏活動を繰り広げます。
この間、少しずつ作曲への頭角も現していたクララとロベルトは、お互いに献呈する曲を書き合います。クララ、作品3「主題と変奏」はロベルトへプレゼントしました。ここでもまた、「新しい時代のロマン派作曲家の誕生」と、当代きっての作曲家たちーーリスト、フェリックス・メンデルスゾーン、ショパン、またロベルト・シューマンも作曲家としてのクララに最大限の協力を惜しみませんでした。
その後、クララが18歳になった時、ロベルト・シューマンは結婚を申し込みます。父親のヴィークは強く反対をし、ロベルト・シューマンを受け入れず、結婚を認めませんでした。ふたりは、とうとう裁判を起こしてまで、当然ふたりが勝ちましたが、やっと1840年に結婚が叶いました。父親はその後も、1843年、クララ23歳までふたりの結婚を認めませんでした。
結婚後も相変わらず演奏旅行は続きます。ご存知の方も多いと思いますが、夫ロベルト・シューマンは少しずつ精神を患っていきます。ライン川への投身自殺未遂、そして最終的には1856年、精神病院で亡くなります。
このような激動とも言える人生の傍ら、クララは精力的にヨーロッパ内のコンサートへ出かけ、家族を養う糧としました。不在の間はお手伝いさんや、後年は立派に育った長女が家庭内の仕事を引き受けます。
演奏からクララが得た収入のざっとした記録が、ドイツの文献に残っています。当時のドイツ貨幣タレル(TALER) 1839年から1855年の間、ひとつのコンサートでクララが得た収入は、3000タレル、現在のユーロの価値に置き換えますと22.550ユーロ。たいへんな収入です。これを持って病弱な夫に代わり、大家族を支えていたことが容易に想像できます。
1882年当時のドイツ、物価の一部をご紹介しますと、
パン1kg~0.26 タレル(2012年の物価/2.70ユーロ)
ライ麦粉1kg~0.45タレル(同/0.78ユーロ )
ポテト1kg~0.07タレル(同/1.03ユーロ)
牛乳1リットル~0.17タレル(同/0.74ユーロ)
バター1kg ~1.98(同/4.46ユーロ)
卵10個~0.50タレル/1.82 ユーロ)
在宅の際のクララは、家計簿の記録を惜しまず、料理もこなし、家庭的なことへの時間も惜しみませんでした。ロベルトとの間に7人の子供ももうけています。子育てに加えて、自身の練習、作曲活動のほか、ロベルトの作品の校正、生徒さんへのピアノのレッスン・・・どんな文献を読んでも、この事実に変わりはなく、今のことばで言う、家庭と仕事を両立した類い稀な音楽的才能を持つ「スーパーウーマン」。ただただ感嘆してしまいます。妊娠をすれば一定期間はコンサート活動は限られますし、それを思った時に、このスーパーウーマンぶりは超人的とすら言えると思います。
クララに関しては、この連載エッセイのタイトル「陽の当らなかった女性作曲家」は当らない感もしなくもないです。ただ、夫が一般的な健康状態にいて、けして男尊女卑的男性ではなかった夫――むしろ妻の才能を心底認めて活動に賛辞を送っていた夫が、健全な状態でクララのパートナーだった時は、もっと彼女の活躍の範囲は広がったであろうことにも想いを馳せます。
とはいえ、音楽家としてのクララの才能・実力を認めた夫・ロベルト・シューマンからクララは大きな精神的サポートを得ていました。お互いが補完しあう関係でもありました。バッハやベートーヴェンの作品を勉強したり、お互いの作品を批評しあいました。また、クララは、ロベルトの歌曲を数多くピアノ用に編曲しています。
キラ星のごとくの上述の作曲家たち、当然すべて男性たちですが、女性というだけで、下に見たくてたまらない人間性の小さな男たちではなく、純粋な気持ちでクララを援護する男性たちだったことは、大きな幸せだったと思います。もっとも、この男性たちはすでに社会的な成功を収めていましたから、むしろ、女性を大切にする感覚を身につけていたのかもしれません。
時系列には敢えて触れませんでしたが、クララ36歳の時、ブラームスとの出会いがありました。共通の友人の紹介により、この20歳下のまだまだ知名度のなかった作曲家と、その後生涯にわたり友情を育みます。クララが76歳で永眠する1896年まで40年にわたる長き友情です。
ロベルトが精神を患い、たいへんな環境の中でクララをひたすら支え続けてきたのがブラームスです。また、クララの存在によって、ブラームスも一流の作曲家になったことも間違いがない事実です。そして、このふたりが生涯に渡り精神的な結び付きのみだったかは、クララの長女の書き残したものや、クララ自身のブラームスへの手紙などから、諸説があります。いずれにしましても、ブラームスは絶えずクララを仰ぎ見、そのせいなのでしょうか、一生涯独身を通しました。
クララの作品は数多く残されており、とりわけ彼女の作曲家としての才能が認められたのは26歳時の作品、ピアノ三重奏曲作品17。 それまでの作風を打ち破り、新境地を開拓、変奏曲になっている難曲、個性的な作風です。ロベルトはこの作品をたいそう喜び、ドイツの老舗出版社、ブライトコフ社に掛け合い、翌年1847年に出版へこぎつけました。
クララ・シューマンピアノ全曲集によれば、佳作からソナタまで、例えばソナタの1楽章を1曲と数えた場合、そして、室内楽曲、協奏曲、歌曲などを加えていくと、作品の数は優に70以上となります。
ここでは、ピアノ曲作品21「3つのロマンス」より第一番アンダンテをお聞きいただきます。作品は、1855年5月、ブラームスの22歳の誕生日を記念してブラームスに献呈されました。なんと切なく情熱的な曲かと、他の作品も、構成が大きく太く、そして叙情的な作品が多いと筆者の感想です。


なお、12月27日に日本でリサイタルを開きます。詳しくはこちらのイベント情報をご覧下さい。
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