舞台はインドネシア。インドネシアでは、1960年代のクーデターと政権交代によって、100万人規模の「共産党員狩り」と称した大虐殺が行われた。その大量殺人を実行した人たちは、年老いた今も自国で「国民的英雄」として裕福に暮らしている――。この映画は、監督の提案に応じた彼らの希望によって、虐殺の再現を演じる(Act of killing)映画が作られていくプロセスを追った〈ドキュメンタリー〉である。この設定の醜悪さに面食らうが、監督は撮影当初、被害者側を取材しようと試みたものの、インドネシア当局からNGが出たことで取材の方向性を180度転換したのだという。監督はアメリカ出身のジョシュア・オッペンハイマー。エロール・モリス、ヴェルナー・ヘルツォークという2人の巨匠監督が製作総指揮として参加し、劇場公開を全面的にバックアップしている。
当時、虐殺を実行したのは、クーデターで実権を握った国軍ではなく、イスラーム勢力やならず者などを組織した民間勢力だった。このドキュメンタリーに出演する一人、アンワルという男性も、もとはダフ屋をしていた映画好きのチンピラにすぎない。すでに孫もいる彼は、穏やかな好々爺といった趣のおじいちゃんである。その彼に腰ぎんちゃくのようにくっつき、虐殺の再演に加わる男性も、容姿振る舞いはまるで映画のために連れてきたコメディアンのようだ。撮影現場でも、彼らは顔にペイントをしたり着ぐるみを着たりして、実に楽し気に映る。そのことと、彼らが再演する虐殺の事実とのミスマッチさに、見ているこちらは眩暈を起こしそうになる。
気のおもむくままに罪を被せた人たちを、どのように殺していったのかを、虐殺の行われたまさにその現場で嬉々として語る人たち。彼らの語りは、これがドキュメンタリーであることを一瞬疑うほどに屈託がなく、自らの正義の確信に満ちている。映画の撮影は内輪で盛り上がりながら進むが、村を一つ焼き払うシーンに至る場面では、あまりのセリフに、わたしは怒りで胸がいっぱいになった。そうして、見ていくうちに徐々に明らかとなる、〈衝撃のラスト〉が待っている。ひとり、罪の意識に苛まれることになったアンワルは、贖罪を背負った人間というべきなのか。
映画を見終わったときは、この作品をどう解釈してよいのか分からないほど混乱していたが、何日も考えて、わたしは徐々に正気に戻ってきた気がする。最初は、自分が嫌悪しつつ見てきたものの露悪さにすっかり心を奪われてきたけれど、自分はいったい、どの視点から彼らを裁き、彼らの悪ふざけ(本人たちはいたって本気である)を見て(あるいは見せられて)きたのだろうか、と考え始めたからだ。蹂躙してよい命などあるはずはなく、理由のない殺人が許されるはずもない。なのに、それを正当化する装置はどこにあるのだろうか。ラストの展開に溜飲を下げているだけでは、もしかしたら幾重にも折り重なって存在する暴力や、善悪を裁くということの本質を見失う。自らの良識と倫理観が揺らぎ、正義と良心の向かう方向を深く見つめなおさざるをえない、必見の問題作だ。公式ウェブサイトはこちら。(中村奈津子)
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