
熊本日日新聞は、佐々木幹郎、野田正彰、豊崎由美、阿木津英など13人の筆者のローテーションによる「○○が読む」という長尺ものの読書コラムを連載していて、そのなかにわたしも入っている。他の著者がとりあげない限り、どんなジャンルの本を選んでもかまわない、という度量がうれしい。そのため、前回は元少年Aの『絶歌』をとりあげた。誰も言わなかったことを言ってくれた、と評判になった。「ちづこのブログNo.96」にアップしたから、興味のある人は読んでほしい。
http://wan.or.jp/article/show/4855
ところで今回は、社会学者の書いたエッセイ、もしくはエッセイ風社会学を。紀伊國屋じんぶん大賞受賞2016を受賞した、岸政彦著『断片的なものの社会学』だ。大賞受賞を記念したトークが、4/18夕方から紀伊國屋サザンホールで。トークのお相手にご指名を受けたのは上野。この書評がご縁となった。ご本人とは面識がない。お会いするのが楽しみ。以下に転載する。
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書評:岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社)(熊本日日新聞11月22日掲載)
ひさしぶりに、読み終わるのが惜しいような本に出会った。
岸政彦、『断片的なものの社会学』だ。著者は社会学者だが、そしてタイトルに「社会学」とうたっているが、ここには分析も解釈もない。反対に「解釈できない、分析できない」もののコレクションがある。著者自身が「とらえどころもなく、はっきりした答えもない、あやふやな本」というが、現実とはそんなものではないだろうか。わからないものに直面して、理解や解釈にとびつきがちなわたしたち、とりわけ明晰判明であることをよしとしてきたわたし自身を、そっと押しとどめてくれる。現実は「解釈されることがら」よりも、もっと豊かであることに、改めて気づかせてくれる。
このひとはネットサーフィンで、DV妻の壮絶な暮らしぶりを断片的に描いたブログや、ホストにはまった風俗嬢の携帯ブログをフォローする。「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」世界だ。その「徹底的に世俗的で、徹底的に孤独で、徹底的に膨大なこのすばらしい語りたちの美しさ」は、「一つひとつの語りが無意味であることによって可能になっている」という。このひとはふだん人が経験しない不可解な現実や人生にしばしば遭遇するが、それはその世界を見いだそうとする者の目のまえにだけ、そうした現実はすがたを表すからだろう。たとえばこうだ。
「ある地方議会で、男性議員からの、女性議員に対するとても深刻なセクハラヤジ」があったとき、「ヤジを飛ばされているちょうどそのとき、その女性議員がかすかに笑った...。あの笑いはいったい何だろうと考えている。」
そしてこの本を読むわたしは、こんなことに気がつくこの著者はいったい誰だろう、と考えている。
このひとは職業的な研究者で、しかも他人の人生を聞き取るインタビューをしごとにしている。「お生まれは?」から始まって何時間も。しかも被差別部落や沖縄など、きびしい体験をしてきた人たちが相手だ。そして相手からことばを受け取る。
「言葉というものは、単なる道具ではなく、切れば血が出る。そうした言葉を『受け取ってしまった』人びとも、もはや他人ではない。人の語りを聞くということは、ある人生のなかに入っていくということである。」
引用を重ねると、いくらでも引用したくなる。「分析されざるもの」を記述する文体そのものが、分析を拒む。全文引用したくなるくらいなら、書評の敗北である。
「もし目の前に神があらわれたら、どうか私たちを放っておいてください、私たちに介入しないでくださいと頼むと思う」...この徹頭徹尾世俗的な姿勢が、彼をフィールドワーカーに、そして社会学者にしている。
社会学者とは、自分のなかよりも他人のなかに謎があると感じて、そのもとへ赴くおせっかいな職業だ。膨大な資料や記述を目の前にして、「で、それで?」という問いに立ちすくむ。だからむりやりつじつまを合わせるのだけれど、つじつまの合わないことがたくさんとりこぼされることを覚えていなければならない。そして自分が書いたものよりももっと多くの書かなかったことを、覚えておこうと思う。
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