森崎和江 (言視舎 評伝選)

著者:内田 聖子

言視舎( 2015-12-18 )

私は森崎和江の名を谷川雁から聞いた。 「不明を愧(は)じていうのだが、私は何ひとつ知らなかった。どうして森崎和江は 谷川雁といっしょに暮らすようになったのか。それがなぜ炭坑町だったのだろう。 やがて谷川雁だけ東京に出てきて、森崎はひとり炭坑町に残った。そこにある 必然性は何だったのか」(あとがきP314)

森崎和江は当時、日本の植民地であった朝鮮(現・韓国)で生まれ、多感な時期を 彼の地で過ごし、17歳で日本に渡ってきた。それからの生涯は(太平洋)戦争を はさみ、植民地で育った「原罪意識」に悩むなか、早稲田在学中の弟の自死に遭う。

「生きるとは何か」「いのちとは」を問いつづけているときに出会ったのが谷川雁で あった。そして安保改定阻止国民会議が結成され三池争議がはじまった1958年、 筑豊の小さな炭坑町に移りすみ、谷川雁、上野英信らの活動に参加。 職業や地域、性などによって分断された人々を結ぶ場として創刊されたのが 雑誌『サークル村』であった。

炭坑をはじめ男社会が女性を排除しようとする風潮のなか、森崎は女性だけの 交流誌「無名通信」を出す。そんなある日、ガリ切りを手伝ってくれていた娘さんが 仲間の坑夫に強姦され殺されるという事件が起こった。 組織の問題だと提唱する森崎に対し、大正行動隊を組織する谷川雁は破廉恥罪 だと片付けようとした。つまり彼の言動力によって事を政治的におさめようとしたの である。

これが森崎・谷川間の亀裂を決定的にさせるのだが、森崎はこのような労働者に おけるジェンダーの問題を契機に、海外売春婦や方言をつかって働く女たちの 聞きとりをはじめる。

これまで森崎和江は大きな社会が崩壊するのを二度、見てきた。 一つは植民地であり、もう一つは炭鉱の消滅である。 彼女は取材中、こう語った。 「昭和期を生きた植民二世の私にとって、女が商品であることは驚愕でした」 炭坑町にひとり残った森崎は、地下労働者に学びつつ、列島各地の集落で 働く人々に接し、性とエロスや女たちの苦しみに真正面から向き合い、 『からゆきさん』『第三の性ーーはるかなるエロス』『いのち、響きあう』等を 著していくのだった。(著者 内田聖子)