
アメリカ合衆国の女性作曲家、ニューハンプシャー州で1867年に生まれ、1944年に亡くなりました。両親共に先祖は、ピリグリム・ファーザー。イギリス国教会に反旗を翻し、イギリスからアメリカ東部へ渡った清教徒でした。父親は製紙業を営んでいました。
エイミーの音楽的才能のエピソードは枚挙にいとまがありません。プロのピアニスト兼声楽家だった母や、近くに住む声楽家の伯母、同居する祖母も教会で歌う美声の持ち主と、音楽的な大人に囲まれた環境で、1歳で母親の歌う歌をすべて調子をはずすことなく歌ったとか、2歳で母親の歌うメロディに別な声部をつけてきれいに調和させたとか、4歳でピアノの即興演奏をしたなど数々の逸話が残っています。

その上、エイミーはハ長調やト長調という調性感を、色でイメージする能力を持って生まれました。ハ長調は白、ト長調は赤、イ長調は緑・・・と感じていたそうです。このような特異的才能を持つ人はシネステシア~共感覚(SYNESTHESIA)と呼ばれます。母親の弾くピアノの横に何時間でも座って、ピンクの曲を弾いて・・・今度は青の曲・・・とねだったそうです。そして、6歳で始めたピアノは最初の2年は母親が先生でした。あっという間に、チェルニーやヘラーの練習曲、また、ヘンデルの「調子の良い鍛冶屋」の主題と変奏曲、ショパンのワルツくらいは平気で弾くようになりました。ベートヴェンの32のソナタも弾きこなしたという記述もあります。そして、7歳では初のコンサートを開き絶賛を浴びます。幼い少女の素晴らしい演奏は、世間の格好の話題となりましたが、母親はエイミーに注目が集まることに懐疑的で、このコンサートの後は、極力世間に出ることを避けたそうです。
1875年、エイミー8歳の時に一家はボストン市内へ移りました。田舎の穏やかな生活に比べて、当時のボストンは夜な夜な開かれるクラッシックのコンサートなど、文化的刺激にあふれていて、エイミーもコンサートによく通いました。ほどなく、母親の指導を離れ、ピアノのレッスンはドイツで勉強したアメリカ人の先生になりました。エイミーの才能は巷の話題でもあり、ドイツ帰りの先生のみならず、詩人のヘンリー・ロッズフェローまでもが、エイミーはヨーロッパに渡って勉強するべきだと、ピアノ教師にわざわざ手紙を書いてまで進言しました。
しかしながら、両親はこの申し出に乗り気ではありませんでした。ヨーロッパの生活をするとなれば、音楽家としてのキャリアに主眼を置いた生活となり、それは同時にアメリカで普通の生活ができなくなることを意味していると考えました。確かにまだ10歳にも満たない子供です。エイミーの性格が、女の子”らしく”、情緒が不安定で繊細だと、両親は「女の子」としてのエイミーを主たる理由に、新たな世界の扉を開きませんでした。「女の子」を前面に出すことによって、体が弱いからなどを格好の理由にできましたし、世間の理解を容易にもらえました。一般的に人々に内包されている「女の子」イメージを利用したのです。また、母親はエイミーをプロの音楽家にしようと音楽教育をさせていたわけではなく、音楽は嫁ぐ日までのたしなみ、あくまでも教育熱心な親としての姿でした。
9歳から15歳まで、ボストンの名門・ニューイングランド音楽院のピアノ教授に個人レッスンを受け、また、作曲、対位法など音楽理論も同時に学びました。エイミーは、先生に習うことと同時に、自分でどんどん世界を広げる能力に長けていて、興味の引くことには、なんでも自分から進みました。コンサートを聴きに行っては、聞いた交響曲をピアノ譜に書き換えてオーケストラの総譜と比べてみたり、バッハのフーガを簡単に暗譜をして、一声部ずつ転調をしてみたり、また語学にも才能を見せて、フランス語・ドイツ語をマスターし、作曲家ベルリオーズ(フランス)の本を自ら英訳しました。オーケストレーションについても。当時のボストン交響楽団指揮者・ウイルヘルム・ゲーリックからたびたび貴重なアドバイスをもらいました。
いよいよ、1883年、16歳の時にボストンのミュージックホールで、正式なデビューコンサートを開きました。ショパンのロンドを含め、モシュレスのピアノ協奏曲も弾きました。多くの批評家より賞賛を得て彼女の評判はさらに広まりました。演奏家が女の子だという性差別的な批評が一つも見られなかったのは、批評家に好意的に受け止められるだけの若さと、アメリカの先端を行く都市・ボストンの芸術への深い理解もあったからと言えるでしょう。その後の2年間はボストン交響楽団との競演、ニューヨークを含め各地へのコンサートと、輝かしいキャリアが積み上げられました。
一般的な感覚では、これだけの成功を収めた若い音楽家は、さらにステップアップを目指すのが自然な流れです。しかしながら、ここでは再び母親の考えにより、エイミーはじっくり家にこもり、勉強を続ける生活を送りました。この時期は、処女作となる歌曲 ”The Rainy Day”が楽譜出版されました。そして、一説には、彼女の輝かしいデビューも、母親はエイミーに良き伴侶を見つけるための娘のお披露目として捉えていたのではないかとさえ言われています。

そして、19歳の1885年には母の手腕により24歳年上の、ハーバード大学医学部に勤務する外科医・ヘンリー・ビーチ氏と知り合い、ほどなく結婚します。実の父親とたった1歳違いの男性でした。ビーチ氏もイギリスからアメリカ大陸に上陸した祖先を持つ出自。幼い時は自身が音楽家になる夢を持っていたほどの音楽好き、当然エイミーの評判も聞いていました。まだ若いエイミーの結婚に乗り気だったのは、ただただ母親だけでした。母親は娘が家庭に重きを置き、音楽活動は控えるように考えていました。その思いをビーチ氏に伝え、彼はこれを呑みました。エイミーは母親と夫の言うことを不承不承受け入れ、演奏活動は年に数回の限定的なものとしました。その上、演奏からの収入を得ることは許されず、得た収入はすべて寄付することを強いられました。ピアノの生徒を教えることも叶いませんでした。
この限定された音楽環境の下、当然のごとく彼女の創造性は作曲へ向かいました。一方で、ビーチ氏はエイミーに一切の家事はさせなかったなど、彼女の創造活動に深い理解があったとされています。すでに社会的地位が十分にあった夫は、その地位を利用して、彼女をエリート社会の輪に入れ、ささやかなコンサートを催し、夫の手元にいる限りにおいては、それなりの恩恵を与えました。また、エイミーは夫の批評を尊重をし、耳を傾けていたとされています。ただ、すべては夫の庇護のもと、その範囲での創作活動の自由。一見は安穏と暮らせても、エイミーの人格をそのまま受け止めている夫ではないわけです。当時のアメリカの、それもエリート階級に生きる男性にとって、この思想はとりわけ珍しくなかったのでしょう。その後、結婚生活は25年続きましたが、ビーチ氏は不慮の事故で1910年に亡くなりました。エイミー、43歳の時です。
彼女は後年、夫を評して「ビーチ氏は古い考え~オールドファッションな男性だった、夫は妻の生活を支えるのが当たり前という考えだった。ただ、私に音楽を止めさせる気持ちはなくて、むしろ、次つぎとやる気にさせてくれた。これは幸せなことでした。収入を得たらいけないという約束さえ守っていれば夫は満足でした」と述懐しています。また、別の記録では「結婚生活は耐え難いものだった」という言葉もみつかります。後年のエイミー・ビーチの研究者の間では、結婚生活から来る彼女の心の抑圧が、どのように作品に表現されているか、作品を解析し議論もなされています。

夫の死後、1年後には母親も他界しました。それまで、当時の風習に従って”本名は夫の影に隠し、ビーチ夫人”Mrs.H.H.A Beach” と名乗っていた名前を、あっさりエイミー・ビーチ Amy Beachに変えました。二人がいなくなったことへ一抹の寂しさは感じながらも、長年の抑圧を解き放つ幸せに勝るものはなかったのでしょうか。
堰を切ったようにピアニストとしての活動も再開します。自身の曲を引っさげて、4年に渡ってドイツを中心にヨーロッパに滞在しました。親の反対で叶わなかったヨーロッパ渡航を、とうとう自力で成し遂げました。ピアノ協奏曲、ピアノ五重奏曲、バイオリンとピアノのためのソナタ、交響曲ゲーリック。どの曲も好意的に受け止められ、ライプツィヒ、ハンブルグ、ベルリン等、温かい歓迎を受け、数多くの高い批評が出ました。女性の名前を目にしなかったら、当然男性の作品だと思わせる重厚さとスケール感とも評されましたが、男性女性の枠を超えたアメリカ人初の素晴らしい作曲家と、高い評価を得ました。
4年後にアメリカに戻り、その後も1930年病に伏せるまで、コンサートと作曲活動は活発に続きました。マクダウエル基金による作曲家のコロニーや、夏はニューイングランド州にあるリゾート地・ケープコッドに滞在し創作活動を続けました。「エイミークラブ」が設立され、若い後進の女性たちの尊敬の的となり、全米女性作曲家連盟に連なりました。女性が作曲をするなんて無理なこと、という当時の固定観念を見事に打ち破った作曲家であり、エイミー自身は、音楽活動において、自分の性による差別を感じたことはなかったと言っています。生前にほぼ全曲300曲の出版もなされました。類稀な才能をいかんなく発揮した女性でした。
しかしながら、死後は存在を忘れ去られた時期が長く続くことになります。これは、前回のシャミナードと同じ状況と言えるでしょう。世の中の男性優位思想のもと男性作曲家が台頭し、彼女の作品は隅に追いやられていったのでしょう。その後、近代のフェミニズムやジェンダーの研究者により、エイミーの業績が見直されることになりました。再び陽の目を見たのは私どもにとって何より幸いなことです。
1944年、病のためニューヨークで73年の生涯を閉じました。また、後年、オハイオにある、全米作曲家ホールオブフェイム=Hall Of Fame に殿堂入りも果しました。

この度の演奏は、「Hermit Thrush at Eve ~夜のツグミ(イシモト訳)」約40曲のピアノソロ作品の中で
ひときわ精彩を放つ美しい作品、1921年作曲。併せて「Hermit Thrash at Morn」も残されています。
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