
朝吹登水子著『愛のむこう側』(1977年、新潮社刊)を読む。朝吹登水子(1917~2005)、フランス文学者、翻訳家、エッセイストの自伝的小説。かつてはフランスの香り高いロマンチックな小説として読んだのに、再読して、いやいや、これは戦争前夜のパリを見事に描いた物語だ。今の日本の危うい状況ととても似ていると思い至った。
主人公の紗良は10代で結婚。1935年、パリへの新婚旅行を「灰色の季節」と感じる。気に染まぬ結婚に帰国後、自ら離婚を申し出る。翌年、「もっと学びたい」との思いを断ち切れず、再び単身フランスへ。パリ郊外にある全寮制のポーリュー女学院を経てソルボンヌの外国人大学生のためのフランス文化講座で文学や社会学を学ぶ。
1939年、迫りくる戦争の重い空気に帰国を余儀なくされ、偶然出会ったパスカルとの熱い恋も引き裂かれる。ノルマンディでの別れの夜、パスカルは、6月の野に咲く菖蒲を腕いっぱいに買ってきた。「私、この菖蒲の花床であなたと眠りたいわ」と紗良は言う。まあ、なんてロマンチックなこと。30年代のパリを舞台に若い男女の青春模様がいきいきと描かれていく。
カルチェラタンは学生の街。「垢のついたレインコートを着た髪の長い青年。本を小脇に急ぎ足で通り過ぎる女子学生。体格の良い、糊のよく利いたまっ白のワイシャツを着た黒人学生」、この街には国籍の違う若い人々がたむろする。フランスはベルギー、スイス、ドイツ、イタリア、スペインと国境を接する国なのだ。アラブやアフリカ、アジア、北欧の若者たちもいる。
「見知らぬ青年とすれ違う時、紗良は彼らの視線の中に、一種の閃きが横切るのを見た」。そんな一人、北京大学出身の兪は紗良に淡い恋心を抱く。だが日中戦争のさなか、日本の中国への侵略に後ろめたさをもつ紗良に心を残し、「重慶の抗日戦線に加わる」と告げて去ってゆく。ノルウェーの少女カリンとカリブ海マルチニク島の黒人エリート・エチエンヌとの情熱的な愛。スペイン内戦時、フランコ政権に抗して人民戦線義勇兵に志願する若者も。
しかし時代は戦争への道を足早に進む。ドイツ・ニュールンベルグへの小旅行で、強制収容所に引きずられていくユダヤ人の列を見た時の戦慄。アーリア人優位の「人種展」を見かけたドレスデンでの苦い思いなど、ナチスのポーランド侵攻前夜の暗い空気を肌で知る。1940年5月、ナチス・ドイツによるパリ陥落のニュースを、紗良は東京で暗澹たる思いで聴く。
やがて学徒出陣で召集される幼なじみと、束の間の結婚。疎開先の軽井沢で亡命ユダヤ人医師の助けで娘を産むが、フィリピン奥地での夫の戦死を、そののちに知る。
1950年、占領下の日本を発ち、貨物船で渡仏。娘と二人、フランスで生きていこうと心に決める、「再びパリへ」の章で、自伝小説は終わる。
5年後、朝吹登水子はフランソワーズ・サガンの『悲しみよ、こんにちは』を翻訳・出版、翻訳家としてデビュー。パリの地下酒場でアルベール・カミュやアンドレ・ブルトンの話を聴き、サルトルとボーヴォワールと深く、長い交流が続く。やがて1980年のサルトルの死を身近で立ち会う一人となる。今、サルトルとボ―ヴォワールはパリ・モンパルナスの墓地に二人並んで眠っている。

ソルボンヌ・コント像
紗良が歩いたパリの街角を、2度訪れたパリへの旅を思い出し、地図でたどってみる。
一度目は1995年。オランダ、ベルギー、ルクセンブルグからインターシティでパリ北駅へ着く。5日間のパリ滞在。サン・ジェルマン・デ・プレ近くに宿を探すが、予約なしで、やんわりと断られた。カルチェラタン界隈をぶらぶらあたってみる。ソルボンヌ通りの二つ星ホテルで「屋根裏部屋なら空いてるよ」と泊めてくれた。「お部屋にセキュリティボックスはある?」「私がセキュリティボックスよ」とフロントの黒人女性が、笑って厚い胸をポンと叩いた。

ガレド・リヨン駅
二度目は2001年夏。スペイン・バルセロナから国際列車Targoでマルセイユへ。途中、列車が止まり、「ここからはバスで行け」と国境の町・フィゲラスで降ろされる。国際高速バスで飛ばすこと3時間。「ここが終点だ」と運転手に、にべもなく言われてモンペリエで一泊。翌日、TGVでパリのガレド・リヨン駅に着いた。
紗良がいたパリは今もちっとも変わらない。夏の終わりのパリは南国スペインと違って肌寒い。そしてフランスを発つ日はいつも雨。濡れてシャルル・ドゴール空港行きのバスを待つ。2001年9月11日の朝、関空到着。ロビーにアメリカ同時多発テロのニュースが流れていた。
『愛のむこう側』にあるのはなに? サルトルは「日本から見たフランスであるとともにフランスから見た日本だ」と、この本に寄せて書く。著者は「愛の向こう側」に何を見たのだろう? 日本にとってのフランスか、フランスにとっての日本か。それとも若い彼女が生きた「戦争前夜」の危うい時代なのだろうか?
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