発達障害かもしれない子どもと育つということ。37
収納ケースに子どもを閉じ込めて、父親が窒息死させるという事件が起こった。痛ましい事件である。父親のいいぶんは、「殺すつもりはなかった。しつけとして仕方なくやった」。よくある紋切り型の説明である。おそらく警察発表だろうから、父親が本当にそう発言したのかは定かではない。プラスチック製の収納ケースは、幅約80センチ、奥行き約40センチ、深さ約30センチで、そこに2歳と3歳の子どもを入れた結果、2歳の長男が窒息死したという。あまりのケースの小ささに唖然とする。さぞ苦しかったことだろう(外からふたをロックし、30分放置…殺害容疑の39歳父親「しつけとして何度もやった」産経WEST 2016.4.11 13:18)。
予想通り、ネットでは批判の嵐である。本当に痛ましい事件に心を痛めているひともいるだろうし、最近よくあるように、とにかく叩けるときには叩いてすっきりとしたいというのもあるだろう。親のほうが死ねばよかった、死刑にしろ、という感情的な書き込みを見ているうちにげんなりしてきた。本当に子どもの立場に立つのだったら、意味もなく叩きまくることに何の意味があるのだろう。問うべきは、どうしたら、このような虐待が起きるのだろうかということなのではないか。両親は、血も涙もない人間なのか。日頃、うっ憤がたまっていて、幼い子どもにぶつけざるを得なかったのか。どういう気持ちで、なぜこんなことを。
ニュースでは、「2人がリビングのテレビをたたいて騒ぎ、注意しても聞かなかったので仕方なくやった。これまでも何回かやった」、「(警察)署は、日常的に虐待していた可能性もあるとみて捜査する」と書かれている。もしかしてひょっとしたらと思った。やはりそうである。数日後には、「2歳児収納ケース殺害 子の誕生切望、昨年には家族旅行…発育相談、月内に予定」という見出しの新聞記事(産経新聞 4月13日(水)8時26分配信)
今月、死亡した長男の発育に関して、市の相談窓口を母子で訪ねる予定だったことが12日、関係者への取材で分かった。奈良県警は同日、殺人容疑で井上容疑者を奈良地検に送検。「子供は発達に問題があった」と供述しており、県警は育児の悩みやストレスなどから犯行に及んだ可能性もあるとみて調べている。
子供の誕生を切望していたといい、昨夏の家族旅行では福井県立恐竜博物館を訪問。職場で「子供たちが大はしゃぎでした」と話していたという。上司の男性は「超がつくほどまじめで穏やかな人で、子煩悩だった。子育ての悩みも聞いたことがなく、事件は今でも信じられない」と話した。
子どもは発達に問題を抱えており、親は「超がつくほどまじめ」。子どもを収納ケースに閉じ込めざるを得ないほど、追い詰められていたのだと考えるべきなのだ。まじめなひとほど追い詰められやすい。子どもの将来や現状をまじめに考えれば考えるほど、追い詰められてしまう。むしろ「子どもの将来なんて、どうでもいいや。子どもの人生は子どもが勝手に考えるでしょ」と、冷たく割り切れていたほうが、こういった虐待には結びつかないように感じる(ネグレクト系の虐待にあたるかもしれないが)。
「2人がリビングのテレビをたたいて騒ぎ、注意しても聞かなかった」とさらりと書かれる状況が、マンションに住んでいたらどれだけ大変なことかは、察して余りある。普通の子どもでも大変な状況だが、発達に問題を抱える子ならなおさら。まったくの他人事とは思えない。
虐待をする親は、どこで道を間違うのだろう。生まれつき虐待をするように生まれてくる子どもなんていない。親の内面に原因を求めても無意味である。生まれつきのモンスターなんていないのだ。育っていく過程で、愛情を不幸にして受け取れなかったりという経験や、子どもとの相性や状況だってあるだろう。出来のいい長女には穏やかでおっとりとした優等生のお母さんだったひとが、問題行動を頻発させる下の子には、愚痴っぽくつねに小言をいうお母さんになっていてびっくりしたこともある。完璧な親なんていないのだ。問題は、子育てにつらい思いをしている親と子どもを、どのように支援することができるのかということだろうと思う。親を責めても何も変わらない。
2016.04.20 Wed
カテゴリー:発達障害かも知れない子供と育つということ / 連続エッセイ
タグ:子育て・教育