「「おしゃれは現役」の原稿を書いてね」と星野さんから言われましたが、私はブランドの名前もトンと知らないし、ファッションについてもほとんど知識がありません。
星野さんには申し訳ないそんな私ではありますが、いくら歳をとってもおしゃれ心は無くしたくないなあという思いはあります。 

私の生家は、京都室町の白生地問屋でしたから、着物については小さい頃から親しんでいました。
だけれど残念なことに、あの最悪の戦争によって、着物からは、すっかり遠ざかってしまうことになりました。

戦争は市民の生活を根底から壊します。あらゆる物資が戦争につぎ込まれるわけですから、統制だとか、配給制だとかで自由な市場はどんどん失われていきます。
絹織物は割に早くから統制の対象になりました。本当かウソか、パラシュートに使うのだという噂もあって、急速に品不足になっていったのです。

着物については、生地(素材)によって着方や着てゆくところが違うことを、母から喧しく聞かされていましたので、身についてしまった気がします。
帯はもちろんのこと、襦袢や裏地や八掛から帯揚げなどの小物に至るまでこまごまと決まりがありました。
今はもうそんなうるさいことを言う人はいませんが、着物を着ている人を見ると、やはりちょっと気になる私です。

中原淳一のポストカード――Amazonより

終戦の翌年1946年には、中原淳一という画家が創刊した雑誌「それいゆ」が登場して、ファッション雑誌の先駆けとなったように思います。
翌年には「ひまわり」という雑誌も出て淳一ブームが起きました。姉が買った雑誌には、目が、いやほど大きくて、ウエストがうんとくびれた淳一特有の少女たちが! 
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、実際にはありえないからこその人気だったのかもしれません。
私も「こんな服作って!」と姉にせがんだことを思い出します。

海辺でポーズ。20歳の私が気取っています

戦後も少し落ち着くと新聞にもフアッションの話題が掲載されるようになりました。
その頃、主婦の友などの婦人雑誌の付録には必ず、ブラウスやワンピースの型紙がついていました。姉は洋裁を習って、そんな型紙を使って、妹たちの服を縫ってくれました。
まだ既製服を買うという慣習もなく、それに洋服にする生地も不足していて、母の着物や父のインバネスと呼ばれていた大きなマントが私たちの服に化けました。

日本にもオートクチュールという耳慣れない言葉とともに、シャネルやディオールの名がマスコミに登場、たちまちいろんなブランドの名がどんどん日本に入ってきましたね。
でも、育った年代が悪かったせいか、私にはどうもブランド品が馴染めないのです。そもそも名前が覚えられない、それにどう考えても、「実質」よりだいぶ高いように思えますし。

そんなわけで、この欄には私はちょっと場違いな気がします。
でも、着るものにはうるさい母に育てられたからか、今もたとえバーゲンセールで買っても、センスには気を付けているつもりです。それでホントに気を付けているのか?!と、外野から声がかかりそうですが。


昔の女性は、孫ができる頃になると、色も柄もすっかり地味なものを着るよう周りから強要されていた気がします。
今は、平均年齢も伸びたし、そんな世間様の目の縛りはありません。年齢が高くとも、人それぞれに似合う色がありますよね。もちろん誰にも自分好みの色があります。

『女の本屋の物語』出版記念会。2006年8月

韓国旅行中の一コマ。2013年11月

私はどちらかというと明るい色が好きです。それに黒も好き。きっぱりした色が好みですねえ。着ているだけで楽しくなる服がいいですね。
もう20年くらいも前のことですが、上野千鶴子さんに「豊子さんはいつも派手やねえ。」と言われた覚えがあります。私は自分自身の好みも着るものも派手だと思ったことがなくて、むしろ地味だと思っていたのにねえ。(笑)

好きな色を好きなスタイルで着るのは、高齢者になった今も変わりません。自分では知らぬ間に、「派手目な婆さん」になっているのかもしれません。
でもファッションは、個性が大事って言うでしょう。そして「何事も自分のことは自分が決める」の実践第一項目かもね。

フリマコーナーにアクセサリーを出品しました
私は、夫の文字の蒐集のためにいろんな国に出掛けました。 そんな外国で買った不思議なアクセサリーが手元にあります。珊瑚のネックレスや竜のペンダントなど。
実はみな、歳とると重いので、私にはもう使えません。
フリマコーナーに5点ほど出品しますので、こちらからどうぞご覧下さい。 下に、その中から2点だけご紹介します。 お求めはフリマコーナーからどうぞ。

珊瑚のネックレス 3000円

竜のペンダント 3000円