熊本城の櫓

 暑い、暑い夏、熊本の母たちの家を訪ねた。地震から4カ月、市街地はいつもと変わらぬ賑わいを見せているが、ちょっと路地を入ると、そこかしこに傾いて無人になった古い家がある。

 石垣や瓦が崩壊した熊本城。それでも1607年、築城当時の宇土櫓は無事だったという。長い、長い年月をかけた、これからの復旧が待ち望まれる。崩れたお城を撮るのは忍びなくて「せめて無事だった櫓を」と写真におさめた。こんなに木々が繁っているのに、この夏、なぜかセミの声をあまり聴かない。地中が揺れたせいでセミも羽化することができなかったのだろうか。

 築150年近い母たちの家は少々戸が締まりにくくなったものの何とか無事。早速、娘と二人で壁にかけた額を外し、埃っぽい納戸の掃除を始める。屋根裏の奥には昔、お米屋をしていた頃の大きなタライみたいな檜の米桶が転がっている。古い調度類は壊れず納まっていた。

 箪笥には亡くなった伯母の古い着物や帯、祖父の袴もある。その中から伯母が「紐解き」に誂えたという四つ身の着物が出てきた。大正10年のものだから、もう95年も昔の着物なのに少しも傷んでいない。その頃の流行りか、総紫の地に菊と川の流れをあしらった裾模様が描かれている。子ども用の小さな家紋も染められて。伯母、母、私と代々着たらしいが、写真を見ても覚えてない。そうだ、この秋、孫の七つ参りに、この着物を着せてみようと思い立ち、大事にもらって京都に持ち帰った。

 隣のお寺の善教寺は慶長18年(1613年)の建立。400年の重みに耐えかねたのか、「危険」の赤い紙が貼ってある。80半ばの女性住職はショックで入院。檀家総代と姪御さんが相談の上、一旦、寺を解体。いずれ僧職を引き継ぎ、宮大工に頼んで寺を再建するという。寺の境内をたむろしていたネコたちは、ガランとした空き地の奥の墓の陰からチラリと顔を覗かせるが、住み処を失ったネコたちもきっと寂しいことだろう。

 母と叔母に代わって市役所や地域包括支援センターへ書類の手続きにいく。罹災証明をとるのに少し崩れた壁を写真に撮り、コンビニでコピーする。町中なのになぜかコンビニが遠い。委任状を書いてもらって市役所へ。月はじめの月曜日、ものすごい人だ。「一部損壊」の罹災証明をもらい、何かと不便なので母の住所を叔母の家へ移す。マイナンバーの裏書きも変えて、健康保険証の住所変更も。窓口で待つこと2時間。地震の後、さまざまな手続きに次々と人がやってくる。銀行など、その他の用事も済ませて、ほっとひと安心。

ハウステンボス

 「この夏は阿蘇へ行くのはちょっと無理かな」「そんならハウステンボスに行こごたる」と叔母が言う。娘が事前に2泊3日の旅程を組み、コースを工夫する。子どもと年寄り2コースに分かれて別行動をとることにした。九州新幹線の新鳥栖で長崎本線に乗り換え、振り子列車の特急に揺られてハウステンボスへ到着。ローカル線の駅には真っ赤なカンナの花が咲き乱れていた。

   鳥栖駅の乗り換えは母のために車椅子を頼み、ハウステンボスも車椅子で移動。カナルクルーザーで運河を渡り、パークバストレインやカートタクシーを使ってハーバータウンやタワーシティへ行く。オランダ風の石畳は車椅子で押すのはちょっと大変。疲れないよう早めにホテルに戻って夜はゆっくりしてもらう。

 娘は孫を連れて「水と冒険の王国」の大プールで遊び、昆虫の館へ向かう。夜はアムステルダム広場で落ち合い、ダンスショーへ。80年代のマドンナの曲にあわせて夢中になって踊る。外国人ダンサーにハグやハイタッチをしてもらい、孫はホテルに着くとバタンキューと眠ってしまった。


 母の車椅子を押していて、ふと40年前のことを思い出した。1970年代後半、障害者解放運動の「青い芝」の人たちとともに「そよ風のように街へ出よう」と、一介護者として車椅子を押したことを。

 義母の看病に東京から京都に移り住んでしばらくたった頃、映画「さようならCP」(監督・原一男、疾風プロ)の上映ビラを見て、どうしても行きたいと小学3年生の娘をつれて京大で開かれた全障連第3回大会に出かけた。真夏の強い日差しを受けた大会場に障害者たちがいっぱい。隣で床に横たわっていた重度の障害者が、びっしょり汗をかいている。見かねた小学生の娘が団扇で風を送ると、「ありがとう」とニッコリ、声にならない声で応えてくれた。

さようならCP [DVD]

ディメンション

 あれから40年、今も障害者を見る人々の視線は変わらない。露骨な「差別」を正当化する風潮さえある。試されているのは私たちだ。彼らではない。そのことを、もう30年も昔、『女(わたし)からの旅立ち-新しい他者との共生へ』(批評社刊 1986年)に書いた。この本、なぜだかまだ絶版にならない。

 「青い芝の会」初代会長の横塚晃一さんは『母よ!殺すな』の中で「障害者が健常者を思いやる」とは「介護者に遠慮することではない。介護者がぶっ倒れるのを覚悟の上で使い切ること」と言い切った。『歎異抄』の「よきひとのおおせをかふりて、信ずるほかに別の子細なきなり」という親鸞の言葉を好んだ横塚さんの「心の共同体」への思いとは? 「個別に撃って、ともに撃つ」闘いを、自らと他者に求めることではないかと。もう一度いま、そのことを考えてみたい。

 他人と縁を結ぶことは、自分の心の底にある声を聴き、「異なる他者」の心に耳を傾けること、そんな「共にある」想像力をもちたい。長い、長い時間をかけてつくりあげてきた人々の思いが、ある一瞬、壊れたときは、また長い、長い時間をかけて、ゆっくりとつくり直していけばいい。互いに「迷惑をかけていこうよ!」と言い交わしながら。

女からの旅立ち―新しい他者との共生へ

著者:やぎ みね

批評社( 1986-09 )