発達障害かもしれない娘と育つということ。40
円形脱毛症の大きなものを見つけた。幸いなのは、頭のてっぺんじゃなかったことだ。そして最近、娘が癇癪を起すたびに、胃が締め付けられるように痛い。本当にストレスで病気になってしまうのではないかと自分でも思う。我ながら正直言って限界だ。でももう娘が最近、輪をかけていうことを聞かない。
私は娘に勉強してもらいたい。小学校ですでにカウンセラーに転校を勧められるような事態になっているというのに、中学校になったら半分近くは受験で抜け、また学区も再統合。正直に言って近くの中学校の評判を聞いていれば、いま以上に悪くなることは目に見えている。うちの子にはとても無理だ。
公立と私立、どちらがいい、悪いという問題ではない。学校と、子どもの個性によるのだと思う。公立に向くのは、社交的で、整理整頓ができてきちんと高校進学のための内申点を貰え、集団行動に向くタイプ。公立以外を考えたほうがいいのは、人付き合いが苦手で、個性的で、皆といっせいに勉強するのが苦手なタイプ。うちの娘が近所の公立に行ったら不適応になるのは、火を見るより明らかだ。プリント提出も宿題もろくにできないのに、まともな内申点がもらえるとは、とても思えない。高校にどうやって進学するのだ。その過程でまた学校と悶着あるのも容易に想像がつく。こういった事情は首都圏だけのものだろうけれど。
しかし娘と来たら、いたって呑気である。いや、本当は呑気などではないのだろうが、家で勉強しない。「勉強しないなら、受験はしなくていいよ」(心の底から本気)というと、「受験はしたい」といって泣きわめく。「受験したいなら勉強する。公立に行くなら塾はやめる。この二択しかないではないか」と内心にイライラは募るのだが、どういっても動かない。東京の受験は、中途半端なんてありえないのだ。娘の将来なんてどうでもいいと思えれば、「本人の意思を尊重した」といって放っておけるのに、なまじ将来が見通せるだけに、私も本当に辛い。
学校に知られればまた、お得意の「塾をやめさせろ」が発動されるのは目に見えている。学校はなにかうまくいかないことがあれば、まず「親の愛情不足(もしくは過干渉)」を疑い、つぎに「お稽古事で疲れている」といい募る。決して「自分たちの対応が悪い」とはいわない。「療育で疲れているんじゃないですか? やめさせたら?」といわれたときには、心の底からびっくりした。
癇癪を起こす娘を見て、私の母が「お前の対応が悪い。勉強させようとするのが悪い。勉強しろなんて、私はいったことがない。勉強なんてさせなくていいじゃないか。優しくつねに褒めて育てなさいよ」と私を責める。確かに母は何もかも放置だった。その結果、子どもの自分がどれだけ苦労させられたと思っているんだろう。それでいながら、大学受験で浪人したときには、「浪人するなんて思わなかったじゃないの!」と、それこそ始終喚き散らし、辟易させられたことまで思い出した。こう考えれば、大学受験まで放置してもらったことは、確かに有難いことだったなぁ。
挙句の果てに、「あんたはわかっていない。私はね、両親が不仲だったから、子どもの気持ちはよくわかる。この子の気持ちが、よくわかるのよっ!」といわれて、開いた口が塞がらなかった。確かにシングルマザーになって、子どもに負担は掛けているかもしれないけれど、私だって不仲な両親をもって大変だった。そして親に「気持ちをわかってもらった」と思ったことも、褒められたことも、ほとんど皆無だ。さらに中年になってもまだ、全然気持ちをわかってもらってなどいないと今考えている。つねに否定されている。そんな親に「子どもの気持ちがわかる」といわれたって。冗談かと思った。「私があなたの子どもなのって、知っていますか?」って、聞いてみたい。
何よりも母が私に子育ての文句をいい、いいあらそったのを聞いていた娘が、著しく情緒不安定になった。あーあ。もう本当に何もしてくれなくていいから、放っておいてほしい。なんだかもう本当に疲れ果てた。
2016.08.16 Tue
カテゴリー:発達障害かも知れない子供と育つということ / 連続エッセイ