コーカサス山脈から黒海に流れるエングリ川。ソ連崩壊前後、血で血を洗う民族紛争がおきたグルジア(現ジョージア)とアブハジアを隔てる境界だが、春ともなれば雪解け水と共に肥沃な土壌が中洲/島を生成する。秋には急流に押し流される島だが、生育の早いとうもろこし栽培には適しているのだろう。
本作は、民族紛争を背景に、そんな自然の摂理と共に生きる老農夫と孫娘の姿を、35mmフィルム撮影された映像美と最小限の台詞で描く、詩情豊かな政治的寓話だ。
冒頭、老農夫が中洲に杭をたてるところから物語は始まる。自然が生みだし、やがては消え去る島であるがゆえに、そこはどちらの民族にも属さない〈ノーマンズ・ランド〉。自力で生きる老農夫と孫娘の生活の砦だ。何もない場所に小屋を建て、魚をとり、さばき、干し、とうもろこしの種をうえ、畑を耕す――たくましく生きる祖父と暮らす中で、両親を戦争で失った孫娘も生きる術を身につけてゆく。
或る日、少女が傷ついた若いグルジア兵をとうもろこし畑で見つけたことから、物語は一変する。それまで対岸の森から聞こえてくる銃声で示されるにとどまっていた民族紛争の現実が、突如、目に見える脅威となって出現するのだ。
傷ついた兵士と少女の交流は、スペインの巨匠ヴィクトル・エリセの名作『ミツバチのささやき』を一瞬、想起させる。戦争とジェンダーをからめて描く、常套手段のひとつだ。しかし、本作はそれを、武骨で実直な祖父の視線の先に晒すことで、〈老い〉と〈若さ〉の対比という、より普遍的な生の主題にまで昇華せしめた。春から夏にかけての季節のうつろいは、とうもろこしだけでなく、孫娘にも、変化をもたらしていたのだ。
自分でも気づかないうちに、いつしか大人の入り口にさしかかっている――そんなデリケートな心身の変化を、無遠慮な兵士たちの視線によって自覚させられる少女の孤独が痛々しい。それでも、月明かりに誘われ海に身を浸す場面があやうくも幻想的だ。そうした孫娘の変化をうっかり見過ごし、やがて目の当たりにして狼狽する祖父の可笑しさと哀しみ。すべてが詩情と抑制のきいたユーモアで描き出される。
けれど、すれ違ったかに見えた祖父と孫娘の心は、最後の最後、無言で交わす視線のやりとりで、再び、つながるのだ。ラストまで目が離せない。
ここには確かに、名匠オタール・イオセリアーニ監督作品を通して日本人観客が馴染んできたグルジア映画の骨太なヒューマニズムが息づいている。
少女が大事に抱える古びた人形の扱いに、グルジア出身のギオルギ・オヴァシュヴィリ監督のアブハジアに寄せる思いを見たような気がする。
本作と共に岩波ホールで同時公開されるザザ・ウルシャゼ監督の『みかんの丘』にも、孫娘に寄せる祖父の思いが描かれた場面がある。こちらはアブハジアでみかん栽培をするエストニア人集落を舞台とし、アブハジア支援のチェチェン兵、グルジア兵が同じ家主に命を救われたことから一つ屋根の下で顔を合わせる設定だ。こちらは多言語が飛び交い、言葉の違いが敵味方を識別する手段となり生死を分ける。
同じ紛争を違う視点・手法で取り上げた二作だが、「ロシア・東欧圏で頻発した民族問題のマトリューシュカ構造(大きな民族から小さな民族が独立すると、さらにその小さな民族の地域から別のより小さな民族が独立しようとする動き)の典型」というべきアブハジア紛争を背景としている。(註1)
二作共に老人世帯が主人公なのは、若者・壮年世代の死を示唆するのか? 生き延びた者の使命のごとく両監督がスクリーンに紡ぎ出した〈とうもろこし〉と〈みかん〉の物語――人間愛・生命賛歌を根底とする傑作だ。
註1: 前田弘毅「その土地は誰のものか~アブハジア紛争・血に染まった黒海の楽土」(マスコミ資料掲載)より引用。
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9月17日、岩波ホールほか全国順次公開
『とうもろこしの島』(2014年/ジョージア・ドイツ・フランス・チェコ・カザフスタン・ハンガリー合作/アブハズ語・ジョージア語・ロシア語/日本語字幕:長友紀裕/100分/後援:在日ジョージア大使館)
『みかんの丘』(2013年/エストニア・ジョージア合作/エストニア語・ロシア語/字幕監修:児島宏子・日本語字幕:宇野範子/87分/後援:在京エストニア共和国大使館)