まだ10代の頃、女友だちと二人、東北や九州を周遊する長い旅へ出た。 ひと筆書きで回る国鉄の周遊券は当時、5000円くらい。各駅停車の列車に乗り、ゴトゴトとレールの音を聞きながら車窓から季節の風景を楽しむ。ふらりと途中下車して知らない町を歩いてみる。リュックを背負う若い女の子に通りすがりの乗客も土地の人たちもほんとに優しかった。

 蔵王から秋田まで各停で何時間かかったのかな。車中、おしゃべりに疲れて、手にした『朝日ジャーナル』を読む。1965年2月、アメリカがベトナムへ北爆を開始した記事が載っていた。読み終わって「これ、絶対おかしい」と思わず声が出た。ベトナム戦争の戦況をあれこれしゃべっていたら、隣のおじさんが黙って耳を傾けている。降りしなに「世界はどんどんキナ臭くなっていくよ。あんたたち、どんなことが起こるか、しっかり見ておきなさい」と言い残して立ち去った。二人とも、なんだかわからないまま、ポカーンと顔を見合わせていた。

  仏ヶ浦

  猊鼻渓

 本州北の果ての青森県下北半島、仏ケ浦へ。船着場で漁師さんが「ポンポン船で送ってやるよ」と声をかけてくれた。「2時間後に迎えにいくからな」と約束して。深い海の中に鋭く切り立った凝灰岩がそびえ立つ。真っ白い岩以外、何もない。人っこ一人いない。「ほんとに迎えにきてくれるのかなあ」とちょっと心配になりながら、突き抜けるように晴れた青い空を見上げていた。

 宿はユースホステルや小さな宿に泊まる。岩手県の平泉近く、猊鼻渓へ舟下りした時は、翌日の迎えの舟を待って、峡谷の中洲で一晩、寝袋で眠った。

 九州をぐるりと一回り。日豊本線を下り、宮崎の都城から鹿児島の志布志湾へ。大隅半島をバスに揺られて本土最南端の佐多岬まで。灯台の先に外洋が広がる。「海の向こうに沖縄が見えるかな」。

  指宿の菜の花


 当時、沖縄は返還前でビザが必要だった。30年後、ようやく沖縄を訪ねる。国道58号線を北上して山原(ヤンバル)の森へ。104号線を横断して金武町の米軍実弾射撃訓練場の間を通り抜ける。中国と琉球王国の「朝貢・冊封」の名残を残す古い史跡と、返還後なお基地が残る現実の厳しさと。「海も人も、隠されたものはない」沖縄を隅々まで見せてくれたウチナンチュの女(ひと)は数年後、50歳の若さで「ニライカナイ」(海の彼方にある楽土)へ旅立ってしまった。

 再び九州の旅。錦江湾を渡って薩摩半島の指宿から枕崎へ。沿線には春を待ちかねるように菜の花が一面に咲き乱れていた。 道を歩くと男の子が二人のリュック姿を見て「わあ、山おんなだ、山おんなだ」とはやし立てる。車中、地元の人の会話に耳を澄ますと、同じ九州でも少しずつ方言が変わっていくのが何とも面白い。鹿児島本線を上って熊本の叔母の家に立ち寄る。島原半島から長崎を回って旅の終わりは夜行列車で大阪まで。ようやく帰途に着く。

 ともに旅した女友だちと私は、その後、それぞれの道をゆく。大学卒業後、彼女は広告会社を経てイギリスへ留学、そしてフランスのソルボンヌへ。イギリスの大学では「なぜあなたはそう思うのか?」と徹底して問われ、その根拠を明確に言葉にすることが求められたという。しかもその教育は初等教育から始まっているのだ。1968年、パリ「五月革命」のさなか、カルチェ・ラタンの学生運動のまっただ中にいたらしい。いま彼女はパリ7区・アンヴァリッドの近くに住んでいる。

 翻って私は若気の至りで惚れた男と結婚し、育児に明け暮れる専業主婦。「なんの因果で」と思いながら鬱々と日を送っていた。やがて20年後に離婚することになるのだが。

 それから30年、音信が途絶えていた彼女から、ある日突然、電話がかかってきた。「お元気?」。変わらない声だ。母親が高齢になったので時々、東京に帰ってくるという。

 昔からちっとも変わらないのは待ち合わせの時間に遅れてくること。ケータイもない頃は平気で1時間は遅れてきた。それでも懲りずに待っている私がへんなのだが。電話も途切れることがない。東京からもフランスからも、お構いなしに1時間以上は続く。こちらは「ふーん」「そうなの」「それで?」と返すのが精一杯。おしゃべりな私にしては珍しいことだ。

 このところ何かと慌ただしい用事を頼まれる。「悪いけど、この件、今すぐ調べてくれない?」「これ送るから次まで預かっておいてね」。おやすいご用なんだけど、いつも依頼は、ある日、突然に。


 女一人、異国で生きていくには的確な判断力と広いリサーチ能力が必要。「このジャーナル、読みなさいよ」と時々、メールで指示がくる。読むと、海外から見える日本はずいぶんと時代遅れ。そして日本のマスコミは何も真実を報道していないことがわかる。

 ただ沖縄のメディアだけは違う。先日読んだカナダ・バンクーバー在住の乗松聡子監修・翻訳『正義への責任②―世界から沖縄へ』(琉球新報社 2016年6月)は正しく沖縄を語っている。映画監督オリバー・ストーンなど海外の論者は、沖縄をめぐる日米政府の姿勢に厳しい批判の目を向けていた。

 そして彼女は3・11後、母上をつれて東京から京都に一時、移り住むことを選択した。彼女が急用でやむなくフランスに帰国した矢先、母上が急に息苦しくなり、病院へおつれしたこともある。やがて東京に戻り、昨年暮れ、母上は亡くなられたという。うちの母と同い年だから92歳になられていたと思う。

 このところ間断なく続く自然災害や天変地異、そして原発事故などの人工的災害が起こるなか、どうやって我が身を守ることができるのかと心許なくなる。でも生かされている限り何とか生き延びていかなければいけないとも思う。

 そんなとき、女友だちはやっぱりいいな。若い頃も歳をとっても、遠くに離れていても、会えば変わらない友がいる。ちょっと手間のかかる女(ひと)だけど、元気なうちに、またいつか二人で旅に行けたらいいなあと思う。