孫娘の佑衣(ゆい)の七五三のお祝いに母と叔母がやってきた。半月ほど京都に滞在して無事、熊本へ帰っていった。

 母たち2人を迎える準備と、娘と孫と私を入れて5人分の食事の支度、買い物やお土産を揃え、帰った後の後片付けなど、娘と2人、バタバタしてくたびれてしまった。でもゆっくり楽しんで帰ってくれたので、ほっこりと快い疲れだから大丈夫。

 93歳の母ともうすぐ90歳の叔母と6歳の孫と、娘がつくる食事をよく食べる。和風好みの孫はダシにうるさい。洋風の献立にも2人は「おいしか」と食べてくれる。食が進むうちは、まだまだ元気だ。

 11月3日、朝から七五三参りの準備に忙しい。髪を桃割れに結い、京都の着物職人だった、ひいおじいちゃんが、40年も前に娘につくってくれた着物を着付けて平安神宮へお参りに向かう。

 もう一枚、大正時代の着物がある。伯母と母と叔母と私と、何代も受け継いで「紐解き」のお祝いに着たもの。総紫の地に家紋が入った古式の着物を、今度は孫が着てくれる。先日、写真屋さんで、ちょっとおしゃまな澄まし顔で写った。

 平安神宮の境内で写真を撮っていると中国からの観光客に声をかけられる。「写真を撮っても構わない?」「いいですよ」。代わる代わるスマホで撮っている。「どちらから?」と聞くと「台南から。この色づかいがステキ。かわいいね」。中国人好みの朱色と黄色の鈴の模様が気に入ったのかしら?



 その日の午後、急いで着物を着替えてレンタカーで京都府下の温泉へ。母たち2人はゆっくりとお湯に浸り、身軽になった孫は広い原っぱをのびのびと駆けまわる。小さな女子力の全開だ。

 温泉宿の夕食。母たちはしっかりと食べ、お酒も一合たっぷりと飲む。孫はとれたての野菜の天ぷらを「おいしい」と一人前を平らげた。

 母は大正12年生まれ。17歳で女学校卒業と同時に結婚。父の勤務先の中国・北京へ発った。子どもの頃はお転婆で、小学5年生で走り幅跳び九州一になったほど健康優良児だった母も、外地の気候が合わなかったのか、妊娠中に結核を患う。「北京秋天」、秋の北京の空は突き抜けるように高く、どこまでも青く澄んでいたという。15貫目だった体重も9貫目に落ち、病身を押して生後3カ月の私を抱いて満鉄と関釜連絡船を乗り継ぎ、ようやく帰国。昭和20年、療養していた病院から退院した直後、熊本大空襲で病院は焼け落ちて九死に一生を得たという。きっと命に縁があったのだろう。今年で93歳。少々もの忘れはあるけれど、身の回りのことはひととおり自分でできる。

 食事の合間に昔のことに水を向ける。昭和20年代前半、父は大阪南部の淡輪で牧場の場長をしていた。満州から引揚げてきた人たちも共に働いていた。何もない時代、なぜかうちには贅沢にも、絞りたての牛乳や山羊の乳、バターやチーズ、水飴も一斗缶の中にいっぱいあった。

 ある晩、麻雀で帰りの遅い父のために母は玄関の鍵を開けていたらしい。翌朝、起きたら数日前、買ったばかりの父のホームスパンのオーバーが盗られていた。台所のお櫃に残ったご飯もすっかり食べられてしまって。母も私もぐっすり寝ていて気づかなかったのだ。ある時は知らないおじさんが訪ねてきて玄関に座り込み、あれこれしゃべって説教する寸借詐欺にあったこともある。小さい私が横にいて、その人の顔も覚えているのに、母は「そんなことあった? もう忘れたわ。あんたはよう覚えてるね」と澄ました顔。当時はそんな出来事をあちこちで聞いた。戦後、食べるものがない時代、みんな生きていくために必死だったんだろうな。

 でも楽しいことは覚えている。日曜日は南海電車に乗って難波まで。スカラ座やセントラルの映画館で見たアメリカ映画。イングリット・バーグマンやジョセフ・コットン、ビング・クロスビーやダニー・ケイ、グレース・ケリーなど、映画の話は反応も速い。それにとても楽しそう。まだ20代で母も若かったんだ。いっしょにつれていかれた私も、ぼんやりと覚えている。

 父は57歳で亡くなったが、その時まで母は父の月給がいくらなのか知らなかった。父より一回り歳下だったとはいえ、まあ呑気なものだ。父が死んで数日後、不思議な夢を見た。「あとはよろしく頼むよ」と父の声がして、いつものカバンを手にするとスーッと障子の影に消えていった。ほんと、母みたいに気楽に生きられたらいいなあと思う。見習わなくっちゃ。

 京都にいるうちにと、お天気のいい日、地域包括支援センターで車椅子を借りて、御所の近くの相国寺まで「伊藤若冲展」を見に行った。若冲は京都の錦市場の青物問屋に生まれて、生涯師につくこともなく独特の絵を一人で描き続けた絵師。斬新な構図と色づかいが、今なおモダンな絵に見入ってしまう。85歳まで長寿を全うし、好きな絵を描き続けたという。

 美術館の帰りは烏丸一条の「とらや」中庭の陽だまりで、お昼ご飯と甘いものをいただいて、ゆっくりと過ごした。

 叔母は来るたびにお土産の品定めをあれこれと楽しむ。民生委員の方や、かかりつけのお医者さん、看護師さん、出入りの魚屋さん、世話になっている従姉妹にはお気入りの服を。うちの近くに西陣織の端切れでつくる小物屋さんがある。そこの小物入れは、みんなに大好評だから、また買って帰るという。ちょっとお茶を飲むのに便利なT-falの電気ポットを使っていたら、「これ、よかなあ」という。Amazonで注文して帰った頃に届くよう手配する。ついでに「電気を電力会社から新電力に換えてね。玄海原発や川内原発に反対だから。うちはもう4月に換えたのよ」と伝える。

 来春は孫の入学式。その頃にまた来てもらおう。気性のはっきりした孫のゆいは、同じ性格の母と気が合うらしく、おおばあちゃんには優しい。2人が帰ったあとしばらくは、ちょっと寂しそうだった。

 そしてそれぞれの日常が、また始まった。自分のための、ありふれた穏やかな日々。だけど今、どの国も右傾化の危険な流れが渦巻きつつある。そんなものに呑み込まれてなるものか。絶対にいや。ならばそれに抗して、女四代、女子力いっぱいに、元気に、しかし、ぼちぼちとやっていこう。