今年もおだやかな新年を迎えることができた。元旦には義母(はは)に習った京都のお正月料理を並べて。

 お雑煮は丸餅に頭芋、子芋、小大根を白味噌仕立てでいただく。隠し味のワサビをちょっぴり入れると味噌の味も引き立つ。小梅と結び昆布の「お福茶」とお屠蘇。蛤の潮汁。「一の重」はごまめに数の子、たたきごぼう、ヒラメの龍皮巻、タイの子やエビも添えて。「二の重」は丹波の黒豆。「三の重」はお煮しめ。「与の重」は紅白蒲鉾、だし巻玉子、栗きんとんに昆布巻、紅白なます。一応、すべて手づくりで年の瀬に仕上げる。6歳の孫娘も、いつもおいしく食べてくれる。

 もう40年も前になる。1977年1月、食道がんの術後の義母の看病のため、千葉から京都に越してきた。底冷えのする京都。路地の奥の古い長屋はさすがに寒かった。小学1年の娘は風邪を引き込んでしまった。夫は三男坊だったが、義母の病後を看たいと私が願い出て、夫もそれを受け、東京から大阪へ転勤願を出した。まだ30代前半で若かったんだろうな。そんな選択もちっとも苦にならなかった。そして5年後、82年1月27日、義母は亡くなり、その7年後に私と夫は離婚を選びとり、それから5年して義父を見送った。不思議にも二人の最期に立ち会ったのは、たまたま私一人。あれから35年、亡くなった義母の歳も超えたのに、なぜか祥月命日が近づくと二人の夢をみる。

 義母は明智光秀の重臣・斎藤利三の家系につながる末裔だった。利三の娘「福」は後に徳川三代将軍家光の乳母・春日局となるが、その名に因んで「富久」と名付けられたとか。明治維新後、禄を失い、武士の商法も失敗。義母は養女に出される。やがてその家も出て着物職人の義父と結婚した。義父はその頃、流行りのハーモニカバンドや謡の仲間と遊び歩き、結婚3日目に朝帰りして、「結婚してたこと、うっかり忘れとったんや」といったとか。昭和9年、京都を室戸台風が襲う。強風で丸太棒が窓ガラスを突き破り飛び込んできた。それでも悠然とおにぎりを食べる妻を見て、義父は「女は強いなあ」と思ったそうだ。

 京都のお商売は蔭で支える女の人でもつ。義母もそのように家業を支えてきた。だが戦争末期、空襲の延焼を防ぐため五条通と堀川通を拡張する建物疎開で自宅を壊され、義母と3人の息子は近江へ疎開を余儀なくされる。京都に戻ってきたのは戦争が終わって10年目だったという。

 義母は、気っ風のいい、はっきりとものを言う気丈な人だった。しかし食道がんの手術で声帯を傷つけ、声を失ってしまう。そのショックと無念さはいかばかりだったかと思う。とりわけ義父との意思疎通がなかなかうまくいかず、辛かったのではないかと。声にならない義母の意思を読み取り、義父につないだことも、しばしばあった。ゆく春と秋を惜しむように、桜と紅葉を追いかける義母のために、近くの御所へ、よく一緒に出かけたものだった。

 「嫁」という言葉は、もう死語になってしまったけれど、落第「嫁」だった私を、よくまあ呆れもせず、つきあってくれたと思う。気は利かないし、料理もだめ。ひとり娘の私を、まだ若かった私の母は「どうせ結婚したら、いやになるほど家事をしないといけないから手伝わなくていいよ」と何でも一人でやってしまう。おかげで結婚当初は手に汗を握りしめ料理したものだ。三つ葉の茎は捨て、葉っぱだけを残したり、野菜を茹でるのは水からなのか、お湯からかなと迷ってみたり。やがて母の味と、つくり方を思い出してできるようになった。京都にきてから義母に習った京料理も少しはつくれるようになったけど、「まだまだアカンなあ」と天国で笑うてはるかもしれない。

 妻に先立たれてからの義父の余生が見事だった。一人になり、だんだん自立していったのだ。離婚した後も時たま訪ねる私を、にこにこお茶を入れて迎えてくれた。軽い脳梗塞になった後、昔ながらの家政婦さんが、とてもよくしてくれてありがたかった。ほんとに昔の人はえらいなあ。

 さて今年のお正月は、あたたかくて、いいお日和だった。 元日は祇園から清水寺へ初詣に。道々あちこちで中国語が聞こえる。レンタルの着物姿も楽しそう。茶わん坂や五条坂あたりは民泊の宿も多いようだ。鴨川沿いに四条へ出て御所近くの自宅までテクテク歩くと、帰りはもう日が暮れていた。

 3日は安切符を買って神戸まで。「モトコータウン」(元町高架通商店街)が耐震工事のため3月で退去になるらしい。行ってみると3日までお休み。戦後の闇市に始まり、ワープロを修理するおじさんの店や珍しい輸入雑貨の品々が並ぶ、レトロなお店がたくさんあったのに、JRとの借地契約切れでなくなってしまうのは、とても残念。

 お昼は南京街の上海飯店で。元町商店街の「べっぴんさん」の店familiarへ寄り、店じまいのカバン屋さんでリュックを半額で買う。トアロードの先に「北野・工房のまち」(北野小学校跡)があった。皮細工のお財布づくりに孫娘が挑戦。とにかく工作大好きの子なんだ。

 4日は京都劇場で劇団四季「美女と野獣」を見る。反・フェミのディズニー作品だけど、ベルもビーストもうまいけど、エルビス・プレスリーを真似た悪役・ガストンが愉快だった。

 5日は亀岡の湯の花温泉で1泊。あたたかいお湯と、採れたての野菜料理がおいしい。亀岡は京都・二条駅から保津峡を超えればすぐ。

 先頃、完結した秋本治「こちら葛飾亀有公園前派出所(こち亀)」の次作は、「亀」つながりで亀岡を舞台に「ファインダー―京都女学院物語」(週刊ヤングジャンプ)がスタートするらしい。元気な女子高生が主役だ。京都・亀岡スタジアムも建設間近と聞く。明智光秀ゆかりの町は今年、ブームになるかな。

 
 そしてお正月も終わった。世の中は不穏な動きを見せているが、日常は淡々と進んでいく。

 先日、NHKラジオ深夜便で五木寛之(84歳)が『新 青春の門』第8部を「週刊現代」に書き始めるといっていた。連載中断から23年ぶり。ユーラシア大陸横断の大望を抱く主人公・信介の旅を描くという。『さらばモスクワ愚連隊』以来の、五木寛之の終わりなき旅がまだまだ続く。とっても楽しみ。

 なんといっても旅と読書は、まだ見ぬ「非日常」の世界へと私をつれていってくれるから、大好きなのだ。