その人は、思いやり深く、相手の気持ちを察する力に長けている。相手に共感し、人の喜怒哀楽を我が事のように感じている。受け止めてくれるから、話す方は気持ちが楽になる。相手のために、行き届いた配慮をする。すごい人だな、と思う。

その人は、たくさんの重荷を背負っている。あちらでもこちらでも、誰かに尽くそうとするから。責任感が強く、自分自身を省みずに人のためにばかり働く。その人の体が時に悲鳴をあげているのがこちらに聞こえるのに、本人には届いていないようだ。「少し休んだら」と言っても「だって私がしなくちゃ、他に誰がするの…」という返事ばかり。その人の働きは、いつのまにか他の誰かに当然のように吸い上げられていて、その人はただ疲弊していく。

同じ人なのに、少し見える範囲が変わるとずいぶん違って見える。

「そういう人は要領が悪いんだよ。自分のキャパ以上のものを抱えたり、仕事をマネジメントできなくなったりする。しょうがないよ、困るならやり方を学んだり、自分の能力をちゃんとわきまえたりしなきゃ。」そういう見方もあるかもしれない…けれども納得できない。たしかに「時短テク」を学べば、少しは隙間ができるかもしれない。でも、それで根本的な解決になるのだろうか。私はその人の周りに「何かとても理不尽な感じ」を覚えていて、それに対してモヤモヤしているのに。

「ダメだよ、そんなに何でもかんでもあなたがやらなくてもいいんだよ。もっと自分を大事にしなきゃ!しょせん人は人、自分を守れるのは自分だけだよ!」その人を労わりたくて声をかけたはずなのに、単なる叱責になっている。ダメだ、そういうことをしたいんじゃない。伝えたいのは「自分を大事にして」であり、知りたいのは「どうしてその人は自分を大事にできないのか」だった。

どうすればいいのか分からず、その人になったつもりで考えて、浮かんだ言葉を並べてみる。「人の役に立ちたい」「これくらいのことは私にできるはずだ、できなければいけない」「人に任せるよりも自分でやった方が楽だ」「人と衝突したくない」「私がやらなければ誰がするのか」「誰かに頼むなどアクションしたところで、いやアクションすることさえ、大変なのは私ではないか」「なぜ自分ばかりが、と考えたところでみじめになるだけだから、考えない」

思いやり、プライド、完璧主義、周囲への不信、諦観と自己防衛。色々なものが混じり合っているように見える。中でも「諦観」はずしりと重い。仕事であっても「自分しかやる人がいない」という状況はあるし、家庭に関することの場合はさらに、外部からの介入も、内部の状況が変わることも簡単には期待できない。「理不尽」である。

しかし「何かとても理不尽な感じ」はもう少し違うところにもある気がする。なぜ、あちらこちらで「役に立ちたい」という気持ちから出た行動が、いつのまにかその人が「やるべきこと」になり、「やって当たり前のこと」と相手に奪われていくのか、搾取されていくのか。人は感謝を忘れやすいから、というだけだろうか。「ありがとう」「どういたしまして」の関係から「何でできてないの?」「ごめんなさい、頑張ってるんだけど…」に変わってしまい、抜け出せなくなるのはどうしてか。

もしかしてその人は「人に何かをしてあげるために自分はいる」という感覚が染みついているのではないか。確かに、人のために何かをしたいと思うのは自然なことだし、あるいは人間関係の中で居場所を見つけるための近道として、人に貢献するという方法を取るのも理解できる。でも、すべての場所でそれを熱心にやってしまうと、「人に何かをするための自分」しか残らなくなる。そうすると、人からの感謝だけが自分の満足になり、人から拒絶されることが何よりも怖いことになってしまう。だから、あんなに何でも引き受けてしまうのではないか。そう考えると腑に落ちる。

もしそうだとするならば。私にできるのは「とりあえず別に何をしなくてもいい、私はあなたが好きだし、自分のことを大事にしてほしいと思ってるよ」というメッセージを発信し続けることくらいだろうか。「自分を大事に」。シンプルだけれど、実は簡単に見失ってしまうこともあるメッセージをあなたへ。

■ 小澤さち子 ■