
リハビリで入院している友人がいます。友人N子はその病院のリハビリをしてくれる理学療法士さんたちのきびきびした働き方や、病院らしくない明るく開放的な設備にとても満足しているのですが、ひとつだけ嫌なことがあると言います。それは入院している患者たちがフロアの中心部の食堂に集まってくる食事の時だといいます。食事の席はどういう仕組みがあるのかわかりませんが、入院したり退院したり出入りが激しい中で、そのフロアのスタッフが、○○さんはこちらでどうぞと、指定される場所で毎回食事をすることになっているそうです。
その中で新入りのN子は中央近くの、決められた席で食事をしています。N子のテーブルと離れた窓際にいつもきまって座る70代の男性がいるそうです。
N子:彼は、弱い声でいつも「お母さん」「お母さん」と呼んでいるの。そのお母さんがそばに来ると、お母さんと呼ぶ声の10倍ぐらい大きい声で、「なんとかをとれ」「なんとかしろ」って命令口調で言うの。その声に凄みがあって、とてもいやなの。
わたし:え?それ、だれを呼んでるの?ほんとのお母さん?奥さんのこと?世話してもらう妻に、そんなに怒鳴るの?
N子:そう、奥さんは、だまって何も言わないで、そのとおりにしている。彼女が何か用があって席を外すと、またすぐ「お母さん」「お母さん」て弱弱しい声で呼ぶの。急いで奥さんがもどってくるとすぐまた、怒鳴り声になる、ほんとに聞いてられない。
はじめは、その男性が脳か精神かを病んでいて妄想か錯乱かで、自分の母親を呼んでいるのかと思いました。繰り返し弱い声で「お母さん」「お母さん」と何度も呼ぶと言うので、てっきり、母親のことと思って聞いていました。実際はそうではありませんでした。「お母さん」は、付き添っている妻のことでした。
わたし:そんなに怒鳴られて、その妻は何も言わないの?
N子:うん、何も言わない。やれと言われたことを黙ってするだけ。彼は威張りくさって命令している。
わたし:それって妻も悪いんじゃない?そんなこと言われたら、やりませんと言えばいいのに。妻が面倒見なければ、その男性は何もできないんでしょ?
N子:いや、もう奥さんは、彼のこと、夫とは思ってみていないね。赤ん坊か、しようのない子どもだと思っている。何を言ってもわからない赤ん坊だと思っている。だから「お母さん」なのよ。
そういうことだったのです。弱弱しく呼び続けるときは自分の「お母さん」だから…。威張ってどなるときは妻だから…。なんと都合のいい使い分けでしょう。
夫が妻を「お母さん」とか「ママ」と呼び、妻が夫を「お父さん、パパ」と呼び合う夫婦は多いでしょう。子どもの側に立って呼ぶ言い方は日本語では普通です。鈴木孝夫『ことばと文化』(岩波書店)でそのことは詳しく書かれていますが、祖父が「ほら、おばあちゃんが呼んでるよ」と孫に言います。祖父にとっては自分の妻ですが、孫から見た呼び方の「おばあちゃん」を使うわけです。ですから、子どもを育てているころは、子どもに「お父さん帰りが遅いね」と言ったり、「ママに叱られないように早く寝なさい」と言ったりします。自分の配偶者のことを子どもが呼ぶ呼び方を借りて呼ぶのです。そして、子どもが育って家を出て行って夫婦だけになったあともこの呼び方を続ける夫婦はけっこう多いのです。
でも、この病院の夫婦の話を聞くと、子供中心の呼称の継続が、意外に大きな問題をはらんでいることに気づきます。晩年の介護の時期になって、この呼称が呪縛となるかもしれないのです。夫にとって、子どもの呼び方を借りて呼んでいたいわば仮の「お母さん」が、いつのまにか、幼いころ何でも甘えられた本来の「お母さん」にすり替わってしまうかもしれないのです。老後の妻にとって妻としての介護は受け入れられるとしても、母親としての介護までも負担させられるとしたら、それはたまったものではありません。(「お父さん」と妻が呼んで甘える例も考えられますが、「お母さん」に比べたら圧倒的に少ないでしょう)
こうした「お母さん」、鈴木は「親族名称の虚構的用法」と言っていますが、虚構と思ってやりすごしているうちに、どっこい真実と思いこまれてすり替えられてしまった、などということになりかねません。優しくて甘い香りを含むと思われる「お母さん」にも、恐ろしい落とし穴があります。細心の注意と厳重な防御、おさおさ怠りのないようにしたいものです。
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