19世紀末から20世紀初頭、ベル・エポック期のフランスに実在した黒人芸人の栄光と凋落を描く映画――といえば、当時、世界第二の植民地帝国だったフランスの人種問題がテーマ、と大方の予想はつくだろう。実際、その通りだが、現在公開中の映画『ショコラ 君がいて、僕がいる』はサーカスという見世物における白人・黒人道化師コンビのパントマイム劇を通して視覚的に問題提起してみせた。
しかも、そのマイム劇たるや、素晴らしく秀逸で目を奪う演技の連続。 華やかなベルエポック時代の劇場の雰囲気と共にサーカスの時代の興奮を現代の観客が追体験できるよう趣向を凝らしている。

白人芸人フティットを演じるのは、喜劇王チャップリンの孫ジェイムズ・ティエレ。チャップリンの娘を母にもち、「ヌーヴォー・シルク」の旗手として知られた父の下、4歳からサーカスの舞台に出演。黒人芸人ショコラを見出し芸を仕込み、コンビを組んで一世を風靡し、やがて決裂に至る複雑な役どころを祖父譲りの哀愁漂う風貌と共に演じきる。 黒人芸人ショコラを演じるのは、コメディアンとして人気を博し、映画『最強のふたり』でセザール賞最優秀主演男優賞を受賞したオマール・シー。驚異的な身体能力に支えられた演技は、おおらかな自信と愛にあふれイノセントな笑いを誘う。 実際、これは、スペイン領キューバのハバナに生まれ、10才前後でスペイン商人に買われ大西洋を渡り、家事使用人としてスペイン・バスク地方で奴隷状態の日々を送っていた一人の黒人青年のドリーム・カム・トルー物語であり、「解放」の物語でもあるのだ。

本名ラファエル、姓も戸籍を持たない黒人青年が、ベル・エポック期のパリでどのように成功を遂げ、栄光を享受し、そしていつしか意識覚醒し、白人観客の前で黒人のステレオタイプを演じることに苦悩・葛藤し、そこから脱皮しようとしたか――― おざなりの映画ならば、ありきたりな描写になりがちな展開を、本作は、後半、驚愕すべき二つのシークエンスで、まさに映画的に示して見せた。

一つはパリで当時開催されていた植民地博覧会のシークエンス。「展示」されていたネイティヴの黒人の若者に、ショコラがネイティヴの言葉で話しかけられる場面にはフランス映画ならではのポストコロニアル的視点が生きている。
もう一つは、黒人意識に目覚めたショコラが、「打たれても満足」と揶揄された役割から脱皮するシークエンス。注目すべきは、白人芸人フティットが当時欧米で流行していたオリエンタリズムにのっとりゲイシャに扮している点だ。白塗りの化粧に白い着物姿の白人芸人が、自分に反抗する演技を始めた旦那役のショコラを追いかけ、屈辱にまみれながら「アリガトウ」とお辞儀を繰り返す。ツッコミ役の白人芸人と、ボケ役の黒人芸人の「役回り」が、奇妙な権力構造のねじれと共に逆転する瞬間だ。

原案は、フランス社会科学高等研究員教授で移民史研究のパイオニア的存在、ジェラール・ノワリエルの『ショコラ―歴史から消し去られた黒人芸人の数奇な生涯』(集英社インターナショナル)。
映画が日本公開される2017年はショコラ没後100年にあたるという。自身、移民二世であるロシュディ・ゼム監督の次の言葉が忘れられない。
「これは、フランスという国の物語だ。何の罪も責任もなく、ショコラは時代に名を刻み、そして忘れられた。そういう人間は彼だけじゃない。彼について語ることは、僕らの過去を知るための助けになる。今日をよりよく生きるためには、過去を知ることがとても大切だと、僕はいつも思ってる」

映画の最後には、シネマトグラフの創始者リュミエール兄弟が実際のショコラとフティットを撮影したフィルムも上映される。こちらも見逃せない。

『ショコラ ~君がいて、僕がいる~』
2017年1月21日(土)シネスイッチ銀座ほか全国順次ロードショー(公開中)
c 2016 Gaumont / Mandarin Cinema / Korokoro / M6 Films