春3月。弥生の節句に、娘に父方と母方から送られた京雛と木目込み人形を、娘から孫へと受け継いで飾る。
お祝いに京の和菓子の引千切(ひちぎり)をいただく。夏は鮎菓子、秋は亥の子餅(いのこもち)、お正月は花びら餅と、季節、季節の京菓子は決まっているそうな。
早春のある日、何かと熊本の母と叔母がお世話になっている従姉妹から電話があった。「一番年上の従兄弟の喜寿のお祝いに、みんなで「いとこ会」をするから来てくれない?」とのお誘い。父方のいとこたちが10人、久しぶりに揃うらしい。小学校以来、会ってない人もいて、みんないい歳になっているんだろうな。うん、とりわけ寒かったこの冬を母たちが無事に過ごせたかどうか、様子を見がてら帰ってみようと、慌ただしく仕事のきりをつけて出かけることにした。お土産に西陣織のネクタイと女のいとこたちには同じ西陣織でつくった巾着の小物を買って。
小春日和の一日。小高い丘の上にある父のお墓に何年ぶりかでお参りを済ませ、みんなが待つ植木の温泉宿へ。福岡、熊本、沖縄、京都からやってきた。退職後も元気に畑仕事をしているという。もうあの世へ旅立ってしまった父のきょうだいは5人。50代で早く亡くなった父の分、他のきょうだいは長生きをして100歳近くまで生きた姉もいた。それぞれの親の思い出話を聞く。
父は明治末年の生まれ。生きていれば104歳になるのかな。菊池の田舎の地主の長男に生まれたが、先々代の放蕩で田畑を失う。旧制中学卒業後、3年間、懸命に働いて、とうとう失くした田畑を取り戻したとか。まるで二宮金次郎みたいに背中に荷を背負い、本を読み読み、畦道を歩いていたという。あら、私と全然違うわ。よっぽど勉強が好きだったんだなあ。「農民をもっと豊かにしたい」と願って3年遅れで宮崎高等農林へ進む。宮崎の歯医者さんの家に住み込み、その家の息子の家庭教師をして学費を出してもらったらしい。世話になった一家と晩年まで交流は続いていた。
卒業後、農業技術者として北海道の帯広、福岡、熊本の種畜場へ。さらにニュージーランドで数年間、学ぶ。大きなハサミで羊の毛をジョキジョキ切るのがとても上手かった。「ニュージーランドは人より羊の方が多いんだよ」と、よく聞いた。渡航に持参した、古い大きいトランクが押入れの隅にあった。昭和17年、母と結婚と同時に中国との合弁会社に勤務のため中国・北京へ渡る。病気の母と私は戦争が終わる前に先に帰国。昭和21年、引き揚げてきた父の髭面を見て、3歳の私は「お父ちゃん、ウー」と泣いたという。「中国の人はね、一旦、知り合うと、とっても仲良くなれるんだよ」と、子どもの頃、よく話をしてくれた。
戦後すぐ、大阪南部の淡輪に農場を開き、場長となる。満蒙開拓団の引揚者や元憲兵、在日朝鮮人の人とともに山を切り開き、畑を耕し、牛や馬、羊やヤギなど動物たちをたくさん育てていた。牛の出産は難産で夜中に何時間も立ち会う。野原に据えたドラム缶の風呂に入り、夜空の星を仰ぎ、絞りたての牛乳を飲んで私は大きくなった。やがて農場はゴルフ場となり、働いていた人たちもそれぞれ郷里に帰っていった。今でも母に、その家族から年賀状が届く。父は大阪府の農業専門技術員となり、私は大阪・天満の小学校へ転校した。勤め先の父の部下たちが、よく家にやってきた。母の手料理を食べ、酒を飲み、賑やかに談笑していた。中国仕込みの麻雀が強かった父は、町の麻雀屋にふらっと立ち寄り、いつも帰りは午前さまだった。
一人娘の私の結婚に父は反対だった。新聞記者の相手が気に入らない。それでも結婚式のあと、大阪から別府まで夜行列車に乗るホームで、父は突然、もと夫の手をギュッと掴み、「娘を、よろしく頼むぞ」といったのにはちょっとびっくりした。その半年後に父が倒れたと知らせがあった。酒豪ゆえの肝硬変だった。毎日のように届く母からの手紙も容態が芳しくない。3月の雪の日、千葉から熊本へ駆けつけた。身重だった私を父はうれしそうに迎えてくれたが、帰る日、床に伏せている父に別れの挨拶をするのが辛く、黙って玄関に立った私に「きちんと挨拶もせず、帰るつもりか」と大声で怒鳴られて泣いたのが、父と話した最後となった。3カ月後、父は亡くなり、その四十九日に娘が生まれた。来年はもう、父の50回忌を迎える。
とんぼ帰りで熊本での「いとこ会」から帰って1週間後、東京の会議に急遽、いくことになった。ふぇみん婦人民主クラブの代表委員会に出席予定の人が、99歳になる母上の容態がかんばしくないとのこと、代理で原宿の本部まで日帰りでゆく。
原宿の竹下通りの人込みを、かき分け、かき分け、神宮外苑の近くまで。いつものように原宿は、なんかよくわからない格好の人たちでいっぱい。60年代の「みゆき族」が闊歩していた頃のことを思い出す。
まあ、この時代、戦後70年たっても、こんなにやまほどの政治課題、ほっておけない問題がなんと多いことか。各地の活動報告を聞きながら「京都はあんまり動いてないな」と、ちょっと反省。脱原発、安保法制、沖縄基地問題、共謀罪・秘密保護法廃止、核兵器廃絶、女性と労働、従軍慰安婦問題、貧困・格差問題、環境問題、ベトナムプロジェクト、70年史聞き書きプロジェクト等々。佐多稲子や宮本百合子に始まる戦後70年続く女たちの集まり。30代~90代まで元気な女たちがいっぱい。でもなんだか、のんびりとしていて、それが今も続く理由なのかなと思ったりもする。久方ぶりの東京は相変わらず、人々が忙しく行き交う。夜、京都に戻ると、少しほっこりとした。
お彼岸を前に義父母の墓参りのあと、北野神社へ梅見にゆく。めぐる春を忘れずに花は咲く。それにつれて1年、1年、歳を重ねていくのだけれど。境内の紅梅や白梅は、かすかな香りを漂わせて、いつものように美しく咲いていた。
春は何かと忙しい。孫の幼稚園の卒園式と小学校の入学式も、もうすぐ。さてさて、また新しい季節がめぐってきた。