
ありふれた言葉なのに、このごろ何度も浮かび上がってきて私にアピールしてくる言葉がある。三冊の本の中で出会った「理解(したい)」。
そもそものきっかけはある小説だ。戦争下の過酷な環境に生きる主人公の少年たちが、残酷なシーンを目にして司祭に言う。
「ぼくたちはがけっしてお祈りをしないことは、ご存知のはずです。そうじゃなくて、ぼくたちは理解したいんです」。
なぜこんなことが行われているのかを理解したい。冷静な言葉でやりとりをしながら、実は主人公たちは「全身がぶるぶる震えている」。人にものを薦めるのが好きな私が、あまりの衝撃と強いインパクトゆえに、ほとんど誰にも薦められていないこの作品。その中でも特に印象強く残っているシーンの一つである。
次に、旧ソ連に関するインタビュー集の中で。話し手は、拷問や死刑執行という職務についていた老人(元婚約者の祖父)のその仕事ざまの独白を思い出してこう言う。
「ぼくは理解したいんです……あれはいったいどんな人間だったのか……あなたも理解なさりたがっている。そうでしょ?」
旧ソ連解体後、弾圧の犠牲者の存在は少しずつながら明らかになるが、それでは迫害者は一体どこにいるのか?拷問をした者も普通に暮らしていたはずだ。あれは自分じゃない、拷問したのは自分ではなくてシステムだ、と思いながら…とインタビューに答える。小説の主人公たちと同じだ、と思う。悪を裁くのではなく、目をつぶるのでもなく、理解したいという態度に引きつけられる。
そして、今度はややアカデミックな本で、こんな言葉に出会う。
「人びとの行為や相互行為、あるいはその『人生』には、必ず理由や動機が存在するのです。その行為がなされるだけの理由を見つけ出し、ほかの人びとにもわかるようなかたちでそれを記述し説明することが、行為を理解する、ということです。」
そう、これ!「理解したい」がはっきりした形を持ち、ようやく腑に落ちる。こういうふうに理解したい、私も理解したいと思っているんだ。何度も浮かび上がってきたのは、私がこういうことをしたいからだ。
そして、理解したいと思いながらも、していない、しようとすらしていないから、警告として浮かんできたのだ。私は幸いにも、この小説やインタビュー集に出てくるような、弾圧や拷問といった極限状態に接することは今のところない。しかし、平和な日常の中ですら、自分と違うパターンで行動する人、考える人を「なんでこうなるのかな?意味が分からない」と切り捨てている。もしかしたら半歩立ち位置を変えれば分かることかもしれないのに。これは「理解したい」とは正反対の考え方ではないか。
「理解したい」という真摯な態度に憧れることは簡単だが、そのための労力や苦しさを避けずに貫くことは、どれくらい私にできることなのだろう。
「理解したい」と思ったことを忘れないように走り書きをする。
◆三冊の本
◇ アゴタ・クリストフ『悪童日記』(早川書房)引用は章「〝牽かれて行く〟人間たちの群れ」より
◇ スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『セカンドハンドの時代』(岩波書店)引用はp.360より
◇ 岸政彦ほか『質的社会調査の方法』(有斐閣ストゥディア)引用はp.30~31より
■ 小澤さち子 ■
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