いち日のはじまりに陽光と向き合う

 私は、子どもの頃から、長距離走が大の苦手だった。それだけに早朝にジョギングをするようになるとは、想像すらしたことがなかった。 きっかけは、単純な理由で、登山のとき、一緒に歩く友人たちに遅れをとって、迷惑をかけてはいけないと思ったからだ。 登山が無理なくできるようになるには、しっかりとした脚力が必要になる。そのためには、コツコツと脚を鍛えなければならない。 外出の時はできるだけ歩き、電車でもなるべく座らないようにする、といった小さな決まりを作った。歩く時間も30分から1時間へと、徐々に増やしていった。  そうこうするうちになんとなく物足りなくなり、ウォーキングの途中で、ゆっくりと走ってみることにした。 最初のひと月間は、膝に軽い痛みを感じることもこともあったが、そんなときは、無理をせず、のんびりと歩くだけにした。 ついつい欲張りすぎてしまう自分にならないように、と自分にいい聞かせながら。
 目標を決めたら、そこに到着するまで、「何が何でもやりぬこう」とする気質は、歳をとっても、なかなか変えられない。 とはいっても、自分で自分の気持ちを追い詰めてしまっては、もともこもない。膝にも必要以上の負荷をかけて痛めないように、「もっと、もっと」と思う気持ちをセーブするように心がけた。
 日々の積み重ねはてきめんに効果が出て、2ヶ月もすると、1時間程度のスロージョギングが平気になってきた。なんだか気持ちがすっきりとしてくるのを実感できるようになった。 まだ夜明け前に目が覚めたときは、今日も日の出を見られると思うだけで嬉しくなり、急いで着替えをして、すっぴんで外に飛び出す。 それでも公道に出れば、夫婦そろってウォーキングに励むご夫妻や、ひとりで脇目もふらずせっせと歩いているお年寄り出くわす。 すれ違いざまに軽く会釈をして、彼らのそばを少し遠慮がちに走り抜ける。15分もすれば、自宅近くの遊歩道にある小高い丘に着く。東の方向に向かって静かに佇むと、薄暗かった空が次第に明るくなり、太陽が東の空からオレンジ色に輝き出す。 薄暗い空に太陽が顏を出し、徐々に空が明るくなる。たったひとりで立っている私を励ますかのように、太陽が光を放つ。光と新鮮な空気に包まれ、私のちっぽけなからだは、計り知れないエネルギーをいただくのだ。

健康でいるために欠かせないもの

 ジョギングをするときは、目覚めたときにコップ一杯の水を飲む。何も食べないため、からだは栄養を欲しがっているかもしれないが、胃は空っぽの状態のままで走り出す。 私が取り込むのは新鮮な空気だけである。 太陽が丸くなったのを確かめて、また走りだすと樹々の合間から、明るい日差しが差し込んでくる。 まっすぐに降り注ぐ陽光を見ていると、
「私も生かされている」
という気持ちが自然と湧きあがってくる。
「いろいろなことがあったけれど、私にもやっと陽が差してきた」と自分自身の人生を重ねて、ポジティブな気持ちになってくるのだ。 朝の空気がきれいなことをからだ全体で感じる。逆に日中の空気が、排気ガスなどでどれだけ汚れているかもわかる。新鮮な空気を吸い込むと、からだの細胞のひとつひとつが修復されていく気がする。 こんな朝を過ごした日は、疲れるどころか、エネルギーが体中に満ちて、かえって一日中、活動的に過ごせる。 ちなみに、一般的によくいわれることだが、人間が健康でいるために欠かせないものとして、次の七つの要素があげられることが多い。

   1、新鮮な空気
   2、純粋な水
   3、人間の身体にふさわしい食事
   4、適度な運動
   5、十分な睡眠
   6、日光
   7、ストレスマネージメント

 そういうことからいっても、朝は空気だけではなく、登りゆく太陽が放つ光も格別だ。以前、日拝=太陽を拝むことを日課とすることで大病を克服したひとの話を本で読んだことがあったが、実際に身をもって体験してみると、太陽光のありがたさと、計り知れないエネルギーの大きさを感じずにはいられない。 太古の時代から、朝陽の力は人間の想像をはるかに超えた存在であることを多くの賢人たちは語ってきたが、奇跡に近いことが起きても不思議ではないように思う。
 私が走っているのは、自宅近くにある公園のウォーキングコースで、雑木林のなかに道が作られている。樹々の葉をひとつとってみても、いろいろなカタチがあり、それぞれの遺伝子に基づいて、周囲の環境に合わせて成長していることがわかる。一見、雑然と見えるこうした自然の光景にも、暗黙の了解があり、樹々全体のバランスが取れているのだ。 どこか悠々として、共存している樹々の姿を見るたびに、主義主張が異なる私たち人間たちも、こうして仲良く生きていけるなら、どんなにいいだろうかと思う。 これからは、もっとひとを理解し、互いに支え合いながら生きていけるような人間関係を築きあげていこうと、自分自身に誓う。 のびやかな樹々からは、
「大丈夫、ともに生きよう」
と、語りかけられているようで、勇気までもらっている。
 自然愛好家でもなんでもなかった私だが、何気ない自然の光景から、自然の摂理と調和して生きることの大切さを学んでいる。 雑木林のなかで、ひとの気配を感じることなく、ひとりで空を見上げるとき、
「生かされて、生きる。調和しながら、生きる…」
そのことを心の底から感じるのだ。 病をのり超えて、やっとこの感覚をからだで覚えたような気がする。