小林麻央さんのことがあってから、私は残念でたまらず、しばらくふさぎこんでしまった。おそらく彼女のことを気にかけていた多くのひとたちも同じような気持ちだったと思う。やっと心の落ち着きを取り戻し、彼女の発言を思い出しながら、聡明で心に沁みる発言は深く印象に残っている。自分自身と真摯に向き合い、懸命に生きた彼女の人生からは、「自分の置かれた環境の中で、しっかりと考え取捨選択をしていけ」といわれているような気がした。特に最期に夫に「愛している」といったという報道には、泣けてしかたがなかった。
がん治療は、早期で外科的手術が成功する場合を除いては、未だにがんの決定的な治療法は完全に確立されているわけではない。もちろん、専門家の先生方は努力され、治療法は日進月歩であるものの、患者にとってはすがるような思いで、様々な治療法を調べ、納得できる方法を選択せざるをえない。彼女も家族とともに考え、最善と思われる治療法にチャレンジしてきたことだろう。彼女の治療法の選択が間違っていたのではないか、特に民間療法に頼ったのが致命的な過ちだったのではないかという意見もある。しかし、そこには彼女や夫、彼女を日常的に支える身内が悩み考え、話し合った結果の選択であったはずだ。何としてでも命を救ってあげたいというひとたちと一体となって、納得した治療法に挑んできたに違いない。
そして、そこにはともに歩んできたかけがえのない人生の時間がある。そうした人生の時間を経て、彼女は「愛している」といったのであり、それは彼女の誠実な生き方を象徴しているような言葉であった。「愛している」と思いながら起こす行動は、義理や暗黙のルール、ただなんとなく、といった曖昧な根拠とは程遠い、慈愛に満ちた眼差しとともに相手に示されるものだろう。
「愛」ということに関連付けていえば、私は「乳がん」を経験して、心に強く思ったことがある。それは、これからは自分に必要なものが何かを見極める聡明さを持って生きていこう、ということだ。私はまず身の回りのモノや環境に目を向けた。必要なものがはっきりすれば、逆に必要でないものも見えてくるはずだと。まず、自室の天井まで組み立ててあった四本の本棚のうち、半分を処分した。段ボールに詰めこんだ本は、全部で15箱分ぐらいになった。モノを減らすことは、心が軽くなることだと実感した。これはモノに対してだけではなく、人間関係にもあてはまるだろう。職場でも、ここが自分のいるべき場所だと思えないとき、その場所にいるべきではない。自分の居場所を見極める際、漠然とした言い方になってしまうが、ポイントになることは、それはそこに「愛」があるかどうかだ。
もちろんひとにはそれぞれの愛があり、愛し方がある。そして、必ずしも良い意味だけを含んでいるのではなく、例えば、ある視点から見れば、「愛」とはイデオロギー装置だとする見方もある。つまり、男性優位の社会のなかで、女性が夫への献身と、子どもの成長だけに、そのエネルギー(母性)をつぎ込むように仕向けられた〈仕掛け〉としての「愛」だ。まだ私が若かった頃、多くの社会的制度や規範はジェンダーによって組み立てられていると知り、この時、ようやく自分が抱えていた世の中に対しての違和感、不可解さの謎が解けた気がした。社会的文化的役割としての「性」の強要を、子どものころから嫌悪していた私は、そうした呪縛から逃れたいと願っていた。「女の子のくせに」「男勝りで困る」と両親から口癖のように言われ続けたこともあり、女性なら「こうしてあたりまえ」という固定観念を抱いているひとに対しては、今でも嫌悪感が走る。私がこの場で使った「愛」とは、生あるもの同士として、最低限命を脅かすような精神的なダメージを与えないということだ。互いにいつくしみ合い、大切にする気持ちがあるという基本的な感情を意味する。それは性差を超えたつながりでもある。どんな厳しい状況におかれようと、自分がいる場所や、周囲のひとたちから「愛」を感じ取れることができれば、私はそこに居ていい。もし、そうではないのなら、いくら好条件に恵まれていようと、自分はそこに居るべきではないのだ。
私は自分の居場所、つまり人間関係や仕事の場で、それを判断基準にしようと思うようになった。もう自分の感性に頼って、失敗を恐れず判断するしか方法はない。ネガティブな感情が流れている場所と空気があるところを避ける、ともいえる。そうすれば、多少の揉め事や問題が起きても、心身に異変をきたすほどの大きなストレスとはならないと思う。
対等に向き合えないひととは距離を置く
日本の一般的な職場では、必然的に一体感が要求される場合が多い。もちろん、職場の人間関係が良好であることは重要だが、職場以外にも逃げ場をつくっておく必要があると思う。そのためには、自分が住む地域のコミュニティや、ゆるいつながりの仲間など、何かあれば逃げていける場所を確保しておいたほうがよい。互いのプライバシーに深く踏み込まないで、程よい距離感の人間関係の方が、本音や人生の核心に触れる話ができる場合も多々ある。いわば、仕事がタテのつながりならば、ヨコの関係をもつことだ。そして、自分を励ます言葉をいつもそばに置いておくことも大切な気がする。
私が「乳がん」の手術を終え退院してから、家に閉じこもっていたときに読んだ一冊の本にこう書いてあった。
「他の誰に対しても、自分以上に尊敬する必要はない。対等に扱ってもらいたいと期待するだけでいい。決してそれ以上の尊敬を抱く必要はない。もし、同等に扱われていないなら、あなたはそれこそ犠牲者だ。それはあなたの態度に起因する」)(ウィン・W・タイヤー著『『頭のいい人はシンプルに生きる』)
私は「乳がん」になる1年半ほど前から、アカデミックな世界でのパワーハラスメントに苦しんでいた。そのことによって、自分自身を追い詰め、とことん自己否定し続けた。
人間関係に悩み苦しみながらも、そこから抜け出すことができないままでいた。すがるような気持ちで、なんとか成果を出し、認められたいともがいていたのだった。そうした思いがずいぶんからだにもダメージを与えていたのだろう。自分が無能であると思い込み、無力感に襲われた日が続いたとき、「乳がん」に罹っていることがわかった。
当時は、自分がやってきたことを客観的に評価し、生きていて意味のあるひとりの人間として自分自身を認める、心の余裕すら完全に失っていた。もちろん冷静に考えれば、誰しも生きている意味はある。しかし、自分が無能であるかのように追い詰められると、自分は人間として生きていてもしかたがないのではないかというところまで、行ってしまうのだ。
また先述の著者は、しゃがみこんだままでいた私の背中を強く押してくれた。
「彼らの『超人的な地位』をおそれてはいけない。いかなる方法をとってでも、彼らの犠牲になることを拒否しなければならない。その一方で、彼らの専門的気質を尊重することだ。そうすれば、専門家や権威者といえども、必ず、あなたに一目おくようになるだろう」
「つまらない人に『甘い顔』を見せてはならない」
「もし、あながた『今までそのようにしてきたから』という理由だけで行動しているなら、あなたは自分の習慣の犠牲者になっている」
このようにも書かれていた。
私はさまざまな場面での自分の態度を思い出した。すると確かに、私には誰かの犠牲者になってもおかしくないような要因があった。相手のせいだけにしてはいけない。そして相手がすべて悪いのではないことにも気づいていく。

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