
かつて、私は自身の痴漢被害を“ネタ”にしていました。もっとも頻繁に被害に遭っていたのは大学生のときでした。痴漢発生件数が多いことで全国的に知られる路線で通学していたせいもあるでしょう。日常的な被害をずっと「こんなことされても、私は平気だ」と思うことでやり過ごしていました。
身体への接触度合いが極端に強いケースはありませんでしたが、満員電車で身動きできないなかでストッキングをビリビリに破かれる、シャツワンピースのボタンをすべて外されるといった、身体的領域を侵されるだけでなく“降車後に私自身が恥ずかしい思いをする”というオプション付きの被害は何度もありました。私は登校後、「これ超ひどくない?」と友人に話し、笑い飛ばすことでうやむやにしていました。
「痴漢ぐらいで騒ぐなんて」ーー被害を“たいしたことじゃない”と思い込もうとしていました。そう思わないと自分が傷ついたことを認めることになり、何かに“負けた”気がしたのだと、いまならわかります。
痴漢に対して怒っていい、という発想がまったくありませんでした。不思議なことです。「痴漢被害を矮小化して何ごともなかったかのように思い込むのは、痴漢加害者をある意味において許容していることになる」と知ったのはそれから20年ほど経ってから。つまり、本書の製作がきっかけでした。
加害者臨床が専門の斉藤章佳(精神保健福祉士・社会福祉士)による『男が痴漢になる理由』は、痴漢の実態を明らかにするところから始まります。
“性犯罪再犯防止プログラム”を通してこれまで痴漢常習者を含む性犯罪者1,000人超と向き合ってきた著者は、「性欲を持て余した男が痴漢をする」「女性にモテないから痴漢をする」など社会に蔓延する痴漢像は的外れだと指摘。男尊女卑的価値観を基盤にした“認知(物事の見方や考え方)の歪み”や、その暴力行為の裏にある“性依存症”という病など、彼らに共通する特徴を解き明かし、それをもとに「痴漢撲滅」への方策を探ります。
著者が語る痴漢の実態は、私にとっては衝撃の連続でした。現代社会を生きる男性の生きづらさが遠因となっていることは理解できても、それを女性に性加害することで発散するという行為はとうてい許せるものではありません。しかも彼らは被害を訴え出そうにない、気弱に見える女性をターゲットとしているといいます。
その卑劣な思考回路を知るほどに、私のなかで怒りが大きくなっていきました。そしてやっと気づいたのです、学生時代、被害に遭ったときに怒ってもよかったのだと。
当時の私に、加害者を駅員や警察に通報し、逮捕させることはむずかしかったでしょう。一連の作業が女性に多大な精神的、時間的負担を強いるものであることは、当時もなんとなく知っていました。でも、ヘラヘラと笑ってやり過ごすことはなかった。少なくとも私は非常に悔しかったし屈辱を感じていたのだから、その感情を自分で認め、表明してよかったのです。
本書では、社会全体にも「痴漢は騒ぐほどのものではない」「たいしたことじゃない」「女性の自意識過剰だ」と、痴漢という日常的に行われている性犯罪を軽視する空気があることも指摘しています。こうした空気がますます通報へのハードルを上げていることは間違いありません。痴漢加害者はその空気を熟知し、利用し、犯行に至っていると知っていれば、当時の私も「こんなことされても、私は平気だ」と無理に自分にいい聞かせることはなかったかもしれません。
著者はいいます。「再犯防止プログラムの受講者に『逮捕されなければ、ずっと続けていましたか』と訊くと、全員が全員『はい』と答える」と。それは、痴漢を止めるには逮捕しかないことを意味します。しかしそれを阻害する空気が社会にあるからこそ、日本は世界でもまれな“痴漢大国”になっているのです。
私たちは痴漢をやりすごさなくていいし、怒っていい。痴漢を許容する空気が社会にあれば、それに対してもNOといっていい。痴漢を撲滅させるには、ただ罰を重くしたり防犯カメラで監視したり、ポスターで「痴漢は犯罪です」と訴えたりするだけでなく、まず社会全体が変わらなければならない。遠大な話のようでいて、それが最短の道なのだという思いを、著者は本書に込めました。
本書は、男性こそが読むべき1冊です。著者がいうとおり「痴漢をはじめとする性犯罪、性暴力は女性の問題ではなく、男性の問題」だからです。しかし自分が、そして身近な人が痴漢被害に遭いイヤな思いをした、屈辱を感じた、日常生活に支障が出た、心身に深刻な影響がでた……というすべての女性に、そしてこれまで痴漢に対して怒りたかったけど怒れなかった女性たちにも手にとってもらえれば、編集者としてこんなにうれしいことはありません。 (三浦ゆえ)
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