
切っただけの生のピーマンの、パリッとしたおいしさが最初だった。
それを食べたのは、祖母の葬儀の朝だった。あるじを急に失った台所で、何をどうしようか迷いながらぎこちなく母とおばが整えてくれた朝食。なんとはなしに口に入れると、パリッと音を立て、ピーマンの香りと味が広がった。くっきりと鮮やかだった。
これおいしいねと言うと、今そこの庭からもらってきたのと母が言った。新鮮な野菜ってそれだけでこんなにおいしかったんだ。就職して都会暮らしをして、「ちょっとお金を出して食べる、凝ったおいしいもの」に目が向いてた私には、ちょっとしたショックだった。こういうものが本当においしいものなのかもしれない、こういうものをもっと食べたい。しんみりした朝食の中でそのことが心に残った。
しかし、「新鮮で素材のおいしさを味わえるもの」はそのときはすぐに見つけられず、ずるずるとそのまま思いだけ抱えることになった。あのときが特別な状況だったから、おいしいと思っただけだろうか、とも思うようになった。
それから何年かして、私は「働くお母さん」になっていた。終業時刻に会社を飛び出し、保育園に駆け込み、帰宅と同時に録画しておいた幼児番組をつけて子どもの気を引きながら、夕食の支度をする。暑い日には汗と疲労が張り付いている感じがする中で、夕方の台所に立っていた。
そんなあるとき、トマトの切れ端をつまみ食いした。ああ…おいしい。それも、すーっと疲れと暑さが引いていくようなおいしさ。あの時のピーマンのような清々しさに久しぶりに会えた。台所でほーっと息をついた。
そのトマトは、農家とのつながりや新鮮さをうたうお店のものだった。子どもが生まれたの機に使い始めて、少し高くても確実においしいとは思っていたけれど、その時の疲れを癒してくれるようなおいしさには驚いた。
その後も何度か、特にきゅうりや枝豆などの夏野菜の元気なおいしさに癒されて、暑い夕方を乗り切った。
今、引っ越しを経ておいしい野菜はさらに身近になった。産直マーケットが手近にあり、そこでは野菜も果物も味が濃くて新鮮なものが多い。「ちょっと味見する?」と言って渡される一切れや一粒が、どれもしっかり主張してくる。しかも値段もお手頃だ。
こういうおいしいものを食べていたい。私にとってそれは、ほっとさせてくれるもの、笑顔にしてくれるもの、疲れを癒してくれるもの。「人は自分で食べた物でできている」という言葉を思うときに、これなら大丈夫!と思えるもの。
新鮮でおいしい食べ物っていいよねと言えば、多くの人は同意するだろう。だから、私がこれから気にしていこうと思うのは、その先に続く言葉だ。「そういうのいいよね。でも…」私はこう思っていた。「でも、都会にはあんまりない」「でも、高い」「でも…」。
口を開けて待っているだけでは手に入らない。おいしさを忘れないうちに。このおいしさがあたりまえになるように。
■ 小澤さち子 ■
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