テレビと距離をおけば、心がやすらぐ

「やわらぎなさい、やすらぎなさい、たのしみなさい、これがヨガの教えです」というのは、日本におけるヨガの先駆者、沖正弘氏の言葉だ(『眼がよくなる本』)
 私はひどい近視である。子どものころから本を読むことが大好きで、ジャンルを問わず読みあさった。特に中高生時代、どうして自分が生きているのか、人間は何をどう考えていけばいいのか、頭がへんになるくらい悩んだとき、唯一の救いを読書に求めた。
 両親との会話が乏しかった私は、こうした根源的な問いに関して、疑問を投げかけられる大人(教師も含めて)が周囲にいないと思いながら大きくなった。人間が生きることに何の意味があるのかがわからない恐怖心から、夜も眠れなくなることが度々あった。思春期特有の精神的に不安定な時期は誰もが通る道だが、私は逃げ場のない孤独感にずっと怯えていた。そんな私を
「女のくせに、本ばかり読んで…」 と、母はよく嘆いていた。昭和ひとケタ生まれの母が求めていたような娘像、つまり結婚して幸せになれるような、家事に万能で可愛げのある女性とは程遠い私に、いらだちを抑えきれなかったのであろう。本を読んでばかりいても、何の役にもたたないとも思っていたに違いない。
 眼を酷使する習慣は、社会人となってからも続いた。勤務先の総合商社では、外国為替の部署に所属していたため、輸出先の外国銀行が発行する信用状を解読し、銀行取引のために、会社が作成する輸出書類にミスがないかをひたすらチェックしていた。来る日も来る日も、細かい文字を延々と見続け、近視はますますひどくなった。 仕事に加え、本を読まない日がない私は眼精疲労から解放されることはなかった。活字中毒は、その後もずっと続いている。
 そうした悩みを抱えている私が出会うべくして出会った本が、沖正弘さんの著書である。先述したように、ヨガがからだにアプローチするチカラを実感した私には、沖正弘さんの言葉は説得力があった。
 私はいつ「やわらいだ」のだろう…。そう思ったときが、いつだったのか。じっくり考えても思い浮かばなかった。しかし、そうした状況も自分自身がつくりだしたものである。誰かをあてにして、他力本願で待っていて得られるものではないのだ。
「やわらぎなさい」
この言葉には不思議な力がある。心のなかで反復するだけで、のどのところまで上がっていたが、すうっと、おへそあたりまで降りていく気がするからだ。言霊という言葉があるが、私にとってはこの「やわらぎなさい」という言葉ほど、からだをゆるめてくれる言葉はない。

 自分の普段の生活を俯瞰して見ると、訳もなくイライラとしてしまうときは、テレビがつけっぱなしになっていることが原因であることがわかってきた。私も決してテレビ嫌いではないが、夫はかなりのテレビ好きだ。帰宅するとすぐスイッチをつけ、何をするときもテレビ消さない「ながら族」だ。 私は見たくもないテレビ画面から音声が次々と流れてくる空間にいるだけで、ほんとうは居心地がよくなかったのだ。聞きたくもないテレビコマーシャルも、いわば強引に聞かされる。これが結構、心をざわつかす。素敵な映像も時にはあるものの、限りなく落ち着かない。 テレビの音に支配されているリビングで過ごすことが、決して自分の精神状態にとっては良いものではないことに、最近、気がついた。かといって、テレビ好きな家族からテレビを見る楽しさを奪うわけにはいかない。
 そこで、自分が特に見たい番組でなければ、静かにリビングを離れることにした。我慢しないで、つまり自分の気持ちに正直になって、気持ちよくいられる他の部屋で、音楽を流しながら過ごすようにしている。 自分に無理を強いて、不機嫌な顔をしながらリビングでいっしょにいるより、さっさと私の方から移動したほうが、家族にとってもいいはずだ。 今、必要でないものと、そうでないもの。詰め込みすぎた机の中を整理するように、モノとの関係をひとつひとつ見つめていくと、自分にとっての居心地のよい空間につながりそうな気がする。



いつも心に音楽と笑いを

 特にクラッシック音楽は、気分転換にもってこいである。最近ではネット上で、無料で聴くことができるサイトも充実している。音楽だけではなく、小鳥のさえずりや波の音などの自然の音を長時間で聴くこともできるから、何か作業をしている時にも使える。 私にとっては、特に沖縄の音楽、伝統的な民謡からビギンのオリジナル曲まで、すべて効果テキメンで、即効効果のある気分転換となる。少々、嫌なことがあった日でも「なんくるないさ」と思えてくる。つまりマイナスの感情が、すっぽりと大きな何かに包まれ、何も悩むことはない、生きること、そのものが素晴らしいのだから、という気持ちにさせてくれる。
 心身によい影響を与える「音楽療法」があることでもわかるように、音が人間に与える影響は私たちが想像しているよりはるかに大きいはずだ。「笑い」が免疫力を上げることは科学的にも証明されていることを考えても、感情をコントロールできる音楽を暮らしの中にうまく取り入れない手はない。

 また、人恋しくなったとき、誰かの話し声に耳を傾けたいときは、テレビよりラジオがいい。優しい語りは心に染みわたるし、楽しい会話は聴いているだけで明るい気持ちにさせてくれる。入院生活がきっかけで、東京のラジオの面白さを知ったことで、私はすっかり「ラジオ大好き人間」になった。 ラジオ番組には、良くも悪くも、本音でトークしているパーソナリティの個性が出ていて、聴き応えがある。テレビにはあまり登場しない時事問題の専門家や、冷静に社会を見られる優秀な人たちが登場する(それにしても、どうしてテレビは、同じタレントや著名人ばかり使いたがるのだろう?)。 今、考えなければならない社会問題や政治、環境などのテーマが議論され、自分では考えが及ばない会話が飛び交うラジオ番組は、好奇心をそそられる。自分が抱えていた苛立ちは、政治権力者の有言不実行や、利害関係だけで動くみっともない人間たちの姿、理不尽な社会構造に対するイライラだと気づいたりする。 「なんかおかしい」と思っていた政治家の発言を聞いたときの違和感を、見事に分析してくれる専門家や、はっきり物事の本質を語れる人たちの分析を聞くと、「なるほど、そうだったのか」と妙に納得でき、気分が晴れたりする。
 知識量が少ない自分では考えも及ばなかった背景や、人間の真相心理が理解できた時には、新しい世界が拡がったような喜びさえ覚えるほどだ。 自分と同じ疑問や違和感を持った人たちが確実にいると知るだけでも、自分の感覚は間違ってなどいなかったのだと、モヤモヤとしていた気分も、一気に吹き飛んでしまう ひいき目もあるが、私の出身地である大阪のラジオ番組は、大阪弁が絶妙に行き交い、言いたい放題の会話が飛び交い抜群に面白い。そうでなくても、旅や仕事で滞在した場所で、その土地ならではの豊かな方言でやり取りされている番組を聴くと、地方の文化と人間味が感じられて面白い。わざわざ移動しなくても、全国の番組はどこでも聞こうと思えば聴けるが、その場の空気感が全く違うのは、旅好きの人間なら誰しも感じるはずだ。
 本音をいわない会話や、パーソナリティやゲストが大げさに騒いでいるだけの番組は、かえってストレスになるが、テレビではいえない本音トークが次々と飛び出し、話題が広がっていく。これからの社会の在り方を考え、世界に目を向け理解するための情報源として、ラジオは身近で最高のメディアだと思う。 忙しさに追われている毎日だからこそ、自分がやすらぎ、楽しくなる音楽や語りは欠かせない。心が「楽」になれば、なんだか心地よい。きっとからだもやわらいでいるのだろう。この時、私は自然の笑顔になっている。  

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