自分の価値は自分で決める
日本では、ファッションをはじめ、市場のマーケットのほとんどが若者をターゲットにし、街の商業施設は彼らの心をどう捉えるか、どのようにしてトレンドを産み出すかで必死だ。
特に若い女性こそ最も消費者としても価値あるものとされる。そのためか、いかに若々しく見られたいかが、多くの女性たちの最大の関心事となっている。
「アンチ・エイジング」という言葉が盛んに使われるのは、加齢を拒否し、歳を取る現実への拒絶反応の表れだ。加齢とともに、身体機能が衰える人間を、劣化する精密機械のように捉え、老いていくことは人間として価値の下がるものであり、避けるべきものと位置付ける。究極な言い方をすれば、自然の摂理を否定しているともいえそうだ。
そうした考え方が世の中全体に漂っているのは、歳を取ることに対する自信そのものが欠如している社会であるという見方もできる。歳を重ねなければ身につかない知恵や、経験に基づいた判断力や考え方に何の価値を見出そうとしていない、未熟な社会が垣間見える気がする。
こうした背景には、若い女の子だけをチヤホヤする、日本男性の稚拙な意識があると、私は思っている。もちろん全部の男性がそうではないが、日本の男性には、とにかく若い女性が大好きなひとが、圧倒的に多いのも事実だ。厳しいいい方をすれば、日本の男性の多くは、性的対象としてしか女性を見ていない、ともいえなくない(むしろ、この発言に猛反撃する男性がたくさんいてほしい!)。
確かに若い女性は、化粧をしなくてもきれいだ。はちきれるような輝きがあって、しかも可愛いらしい。それに比べて私たち中高年は、肌は弛み、皺は増え、体型は崩れている。性的対象としての魅力はないかもしれないが、話していて圧倒的に楽しいのは、歳を重ねた女性のほうだ。
私は大阪の出身だが、関西方面に行くたびに、ある程度年齢のいった女性たちの存在感に圧倒される。なかには、自分が女性であることを忘れてしまった?ひともいるが、性差の壁を強烈なキャラクターでぶち破ったオバさまたちが、本音と直感でひとと対峙している姿が目に付く。派手な外見から読み取れるように、自己主張が強く、反面、情にも厚い、人間味にあふれた女性も多い。
私は誰もが「大阪のオバちゃん」のようになればいいとは思っているのではないが、彼女たちに絶対的なものとして身についているのは、歳を重ねてきた人間だけがもつ存在感、開き直りに近い強さと、人生を面白がる感覚である。
なぜか関西では、思わず目を見張ってしまうようなヒョウ柄や原色の派手な洋服を着ていても、洋服だけが浮くことがない。決して洋服の個性に負けたりしていないのだ。それは彼女たちのパワーや個性の方が、アニマル柄よりも強いからである。若い女性だと、こうはいかない。
生きている私に、ありがとう
「歳を取る度に、賢くなる」という考え方は、「スマート・エイジング」と呼ばれている。加齢とともに、思考力や洞察力といった知的能力や精神力が増していくという概念だ。「アンチ・エイジング」ばかりがもてはやされる日本で、まだまだ聞きなれない言葉である。
しかし、私はこの言葉に秘められた発想を身に付けるかどうかで、自信と落ち着きを漂わせる中高年になれるかどうかが決まると思っている(「大阪のオバちゃん」が、落ち着きがあるかどうかは別として)。
この概念は欧米から輸入されたものだが、人が年を取ることに賢く対処し、個人・社会が知的に成熟することを意味している。人が年を取ることをネガティブなものと見なすのは、年齢差別主義的な見方であり、社会の風潮のなかに無自覚で生きていると、私たちは「スマート・エイジング」のような概念に気づかずに生きてしまう。
これまでの加齢医学の研究によって、人間の大脳白質の体積が年齢とともに緩やかに増加することが分かっている。白質の大半は、脳の神経細胞同士を結合する神経線維のネットワークであり、知識や知恵を形成する役割を担っているのだ。「スマート・エイジング」という概念は、東洋的な価値観を反映させているだけでなく、最新の脳科学による裏付けも反映させた言葉なのである。私自身、自分の生きてきた道のりを振り返ってみても、なんて若いときはバカだったことか、と思いだすだけで恥ずかしくなることがいっぱいある。無知だった分、怖いもの知らずであっただけで、今、考えてみると判断力の乏しさや未熟な考え方がよくわかる。
ただ「スマート・エイジング」の概念を身につけて生きていくうえで、気をつけなければならないのは、自分のなかに居続ける、もうひとりの批評家(・・・)である。
常に否定的な発言を続ける、自分のなかのこの存在は、これまでの人生でダメな人間だと批判された時の屈辱感を、いつまでも昨日のことにように思い出させるからだ。
私たち中高年は、もちろん若い女性のように選択肢は多くはなく、仕事をするにしても、多くの会社が、応募者の年齢で市場価値を判断するこの国での現実は厳しい。
だが、見方を変えれば、そういう現実が立ちはだかる社会であっても、生きていられるだけでもありがたいと思えば、なんだってできる。歳をとっても、これから、私が活躍できるチャンスがいくらでもあると考えることができれば、どれだけ生きることが楽になるだろう。
「エイジング」とは生きている証しそのものであり、私は好きで病気になったわけではないが、病気に直面したのだから、それはそれで自分の人生なのだと考えようと決めた。抱えたものはむしろ財産として、自分の人生の流れを大切にしていこうと思う。
「からだを良くしていただいて、ありがとう。歳をとるということは、それだけ生かせていただいた証拠です。歳をとる、重ねることがこんなに嬉しいことだとわかりました」
と、私はあえて口にする。
「ありがとう」は魔法の言葉だ。他者に対してだけでなく、自分に対して発することで、社会的な評価や、人から認められたいという欲が薄れ、自分はダメな人間だというマイナスの感情を手放しやすくなる。
私が「乳がん」になった後で、日々の暮らし方や根本的な生き方を見直すことができたように、人間、何が幸いするかわからない。むしろ「これで人生が良い方向に回転していく。幸運が舞い込んでくる」と自分に語りかけるだけで、チカラが湧いてくる気がする。
年齢を考えることで、やる気を削がれるのではなく、未来から今の自分を見つめようと思う。そうすることで、今、私がやるべきことが見えてくる。
「昨日より<できること>が増えている」
「明日はさらに増えているだろう」
と思うと、ワクワクする。
自分の生活の細部に気を配り、知ること、考えることを通じて、自分という作品を丹念に創りあげていこう、と。
自分自身の考え方と生活習慣を見直すこと、つまり基本的な生き方を創造する。こうした思想は病から身を守り、逆境に打ち勝つ礎となるはずだ。
2017.12.10 Sun
カテゴリー:乳がんを寄せつけない暮らし / 連続エッセイ