熊本市議会での子連れ議会出席のニュースで、思い出したことがある。
学生時代、各自が順に調査して報告する形式の授業があった。
ある時、報告担当の学生の子ども(その人には小さい子どもがいた)が体調を崩して準備ができず、報告日の変更が認められたことがあった。
どんなに不出来でも決まった報告日に出すのがルールだったため、それは特例だった。教員は他の学生たちに向かって言った。
「これはね…みなさんまだ分からないかもしれないけど、どうしようもないんです。いいですか。」
子どもがいるのは大変なことと思っているつもりだった私でも、それでも頑張ればいいんじゃないかと内心思っていた。それはきっと顔に出ていたのだろう、教員はしっかりと「どうしようもないことだ」と強調した。
このときの教員の言葉は、この10年後、働く親となって、子ども発熱の朝や保育園からの呼び出し電話におびえる私の元によみがえってきた。ここに至って、本当にどうしようもないのだと私は理解した。当時の自分の無理解を反省し、そして思った。
先生、あの時きっぱりと言ってくれてありがとうございます。
もしも、担当の変更は認めないとか、これだから子どもがいるなんて…といった言葉が投げかけられていたら、私はもっとびくびくしながら仕事をする親になっていただろう。
「公」と「私」(とされるもの)は簡単にぶつかる。「オフィシャル」である学業や仕事と「プライベート」をきれいに別々にしてはおけないことは、例えば育児、介護、病気などが身近に起きればすぐに体感する。その時にどうすればいいのか、簡単な答えはない。
ただ、元々あったルールや前提をひたすら守ることを優先しても、解決はできない。「公」の世界のルール通りに運営して平等に解決したように思っても、自分に順番が来て分かるのは、どうしようもなさは解決しておらず単に飲み込まされること、ルールを正しいと信じてしまえばこうするしかないと自分で自分を縛ってしまうこと、である。
この教員は、単に子どものいる学生をかばったのではなく、全員に対して「どうしようもないこと」が起きたときに自分の首を締めないで済むように、縄を外しておいてくれたのだと今は思う。
私は今、ドイツで暮らして2回めの年末を迎えるところだ。ここでの「外国人」としての暮らしは、当たり前と思ってきたことも必ずしも当たり前ではないことを、日々の生活の中でいちいち具体的に体験することでもある。「こうでなければならない」「これが当然」を少し柔軟に考えられる、考えざるを得ない。これには時として苦痛を伴うが、この教員の言葉のように、いつか私を助けてくれるヒントがあるかもしれない。
ドイツのクリスマス風景を少しお届けします。素敵な一年の終わりを、そしてよい新年をお迎えください。
■ 小澤さち子 ■