〈乗継事情〉
書くまでもなくパタゴニアは(写真①)、国の名前でなく、南アメリカ大陸の最南端、チリとアルゼンチンにまたがる地域名である。多くの人がどうしてかガラパゴスへ行ったと思っていて、イグアナいた?とか聞くが、大違いです、パタゴニアですよ。
紀行に入る前に、アメリカ経由の諸事情をどうしても伝えておきたい。行きはロスアンジェルス(LA)空港経由,帰りはNYCのケネディ空港経由である。すでに承知の方にはムダな部分となるがお許しいただきたい。
まずLA空港。パスポート・コントロールに入るとこれまでのブースではなく、ざっと機械が並んでいて(ATMふうの機械)、そこで自動受付をしろ、と。空いている機械の前で、言語は日本語を選択。まずパスポートを開いて写し、右手の指紋、顔の写真。その後税関用の、果物、植物を持っているか、犯罪にかかわったかどうか等の質問にチェックをしていく。最後に「あなたはAA26便ですね」と出た。ここで私はつまずいた。なぜなら降りる前「これ何便だっけ」という私の質問に前の席の男性が27便だと。自分で調べないで、そう思い込んでいたのだ。「はい」でよかったのである。質問は何かのテスト?と戸惑い、「いいえ」ボタンをおしてしまったのだ。OK紙が出るはずが出なく、あっちのほうの、一か所しかなく一人係官のブースを指示される。これがまた長蛇の列である。やっと来た私の番に「単純なミスで、、」と話しかけるが係官は、訊きも聴きもせずPCを睨んだまま。何を言おうと言うまいと、そんなことはどうでもよいのである。信じるのは機械さまである。
かつて9・11後、アフガンのビザを持ったパスポートで米入国にひっかかり、別所で2時間も拘束された経験がある。あれはいつの時か?同じパスポートか?頭は真っ白でも、ちょっと返してください、と言うわけにもいかず、緊張のままじっと待つこと10分ぐらい。やっと解放される。パスポートは更新されたものでした。
帰国のケネディ空港でも一悶着。同時の到着便が多かったのか、ここも長蛇の列で、見れば故障中の機械がたくさん。列の先頭に係官が立って、○番と指示するものの中はウロウロする人たちで一杯。彼らはいったいどうした人たち?推察するに、スースーといかないのであろう。指示された機械の前に立つが、写真のところで動かない。機械を離れるとそれを取られてしまう懸念で、中を徘徊する係官に必死に手を振って呼ぶがなかなか目が合わない。やっとつかまえて、乗り継ぎがあると言うと、すぐに別の機械に連れて行ってくれて完了。OK紙が出る。あとはLA空港時とは別のOK紙を持った人たちのブースへ。ここには2人いて、再度のパスポートチェックと、入国のスタンプ。
場内にトランプさんの写真とUS Immigration & Border Protectionの掲示。これまで大統領の写真などなかったと思うしBorder Protection(国境保守)なのである。飛行機の共同就航の場合の乗継は、スーツケースが出発地から終着地までそのまま送られることが慣例だったのに、今回ここでは一度入国し再出国するのである。トランジットの場所でスーツケースをまた預けてそれは終着地まで行くから、ごろごろ引っ張って歩くことはないものの、スーツケースと切符を諦めれば、そのまま不法入国が可能である。私はLAで友人に会う予定だったが混雑に紛れて会えなかったものの、示し合せれば、そのままドロンができる。誰が不法入国したかは一目瞭然だが(パスポートの控え、切符、スーツケース等)、LAやNYCの大都会、そう簡単に見つけられないだろう、と思う。甘いか。ただただ、なんという壮大な無駄かと思ったものだ。それでもテロはところかまわず出来しているのは明らか。
〈旅の始まり〉
さても長い前陳述となったが、チリ、サンティアゴ(写真②)が、カナダの旅行社主催ツアーの集合地である。ここまでがひと旅だか本来ここからが旅の始まり。全員39名の大所帯、インド、オーストラリア、ドイツ、イギリス、シンガポール、香港等、世界各国から参集。帰国時の解散地がブエノスアイレスで私はここから先述のケネディ空港に飛んだのである。サンティアゴで簡単な観光の2泊。翌日3時間余飛んで降り立ったパタゴニア最初の地が、1848年に作られたマジェラン海峡(マジェランのパタゴニア発見は1520年)の街としてのプンタ・アレナス。初夏というのにうすら寒い雨の出迎えである。ここはヨーロッパ風仕立ての街で(写真③)、市内の博物館等を見学。
1泊ないしは2泊しつつ、まずはチリ側の国立公園をバスでやや北上。プエルト・ナタレスではボートでセラノ湾と氷河めぐり(写真④)。途中で下船して長短のトレッキング。良く晴れるとすばらしい景観だが、冷たい強い風。乗船中に隣席人と話がはずむ。バルセロナから来たという非仲間の乗客は、カタルーニア州の独立についての私の質問には、言葉少なめ。パブロカザルスの「鳥の歌」が大好きと言ったら、喜んでくれた。なんと今バルセロナにはものすごい日本人の環境客が押し寄せていると奇怪な表情をしたものだ。
このような場合にかかわらず、仲間同士はディナー前の“一杯”時やディナー時の男女隔てのない自然な会話が楽しい。出かける前(夕食ははぼ自由・自前)にホテルで“一杯”をやっていて、仲間を見つけると、入れ、入れの大合唱である。全員が流暢な英語を話すわけではないが、そんなことはどうでもよいのだ。私はたまたま精神科医療に携わっていたということで、珍しいのか、いろいろ話を求められた。日本のツアーでは、「日本ムラ」のなかで誰かが行ったところや土産物の自慢を始め、概して女が男をたてるというか、おもねるような発言をして、共通の話題を作るのが上手でない。
さて、話を戻してトレス・デル・パイネ国立公園の大氷河(写真⑤)は丘陵の側面にしつらえた階段を上り下りしながらラグーンを隔てて見学するが、(写真⑥)、時々どこかで崩落があるのか、大音響がこだまする。正面からはわからない。ロカールガイドが氷河と水面の接するところの一部を指してさざ波が見えるでしょう、と言う。たしかに。あれは下の方から少しずつ壊れていってるから、そのうち大崩落が起きる、と。ほんのしばらくして本当に目前で上から氷河の大崩落が始まった。皆の大歓声と轟音と打ち寄せる大波。TVでしか見たことがない現実が目前で展開されている。添乗員のほうに、これだから地球の温暖化が問題だと言ったら、心配ない、後ろでまた氷河が作られているから、と。ええっ!チリ人がそんなこと言っていいの?
ずっと天候には恵まれていたものの、国立公園内の湿った雪の木道で、足を滑らす人が続出。一人は腕を打ち、その他の人たちはたいしたことにはならなかったが、その一人はグループのインド人である医者にテーピングをしてもらい、痛み止めをもらったとか。後から指は腫れ上がり打ち身の真っ黒が気の毒であった。ご本人が全く騒がないし、添乗員も大して心配するふうでもない。私は、解散地まで右手が使えなくなった彼女のサポーターとなるはめに・・・。(河野さんのエッセイは、1月3日掲載の<後編>に続きます。どうぞお楽しみに!)