新春ぐらい、やわらかく穏やかな物言いをしたいと思いますが、どうもそうはいかなくて困っています。
 最近の、ヘリコプターの窓が落ちてきた小学校にわざわざ電話をかけてくる人たちや、ツイッターで、セクハラ被害者を中傷する人たちは、人間として恥ずかしいことを恥ずかしいとも思わない人たちのようです。

 沖縄の小学校に米軍のヘリコプターの窓が落ちてきました。体育の時間で運動場にいた4年生の男の子は、飛んできた石でケガをしました。ほんとにひやりとさせられます。数メートル近くに落ちていたら、大惨事になっていたでしょう。当然のことながら、県知事も親も小学校も米軍に抗議をしました。その数日後、小学校に、基地のそばに後からやってきて、文句を言うな、というような電話が数十本もかかってきたそうです。

 電話の主に言いたいです。あのとき、子どもたちがどんな怖い思いをしたか想像したことがありますか。また、毎日勉強し楽しく遊ぶはずの学校に、空から大変危険な物が降ってくる、そういう所へ通う子どもの気持ちを考えたことがありますか、と。しかも、基地のそばに後から学校が来たといっているようですが、それは大間違いです。もとは町も学校もあったところが基地になってしまったのです。ほかに空いている土地もなく、やむなく基地の近くに学校を建てざるを得なかったという真実を学んでください。沖縄の歴史を知ってください。 事実も知らないで、米軍に抗議するのはけしからんと思っている人なのでしょう。しかも、わざわざ手間をかけて小学校の電話番号を調べて、電話をかけてくるというのだから、根は深そうです。

 小学校の先生も児童も事務員さんも、怖いものが落ちてきて、心底打ちのめされています。なんで自分たちだけが、基地のそばで騒音に悩まされ、自由に運動場も使えないのか、と危険と隣り合わせにすまなくてはいけない現状を嘆いているはずです。そういう不運な弱い立場に置かれています。電話の中傷は、こうした弱い立場の人たちをさらに追い詰めようとするものです。弱い困っている人たちへの追い打ちは卑怯です。人間として全く恥ずかしい行為です。絶対に許せません。

 もうひとつ許せないことがあります。許せないことはたくさんありますが、このような弱い苦しい立場の人に追い打ちをかけることとして許せないことの2番目です。

 アメリカの映画界や政界で、セクハラを受けた女性たちが声を上げた#MeTooのキャンペーンです。日本でも何人かが実名で告発し始めました。今まで、だれにも言えなくて--言ってもあなたにスキがあったから、と言われたりするので言えなかったのですー-じっと我慢するしかなかった人たちが、やっと少し口を開き始めました。いままでどんな辛い思いで過ごしてきたのでしょう。上司にちょっとと言われ、教授に論文を指導すると言われて、不本意に心身を傷つけられた人たち、自分は全く悪くないのに、その受けた屈辱を自分の落ち度だったと思いこまされて、誰にも何にも言えなかった。そういう人たちが、やっと勇気をもって声をあげ始めたのです。

 その結果、アメリカと日本では全く逆方向の結果を生んでいるようです。毎日新聞(2017/12/28)によると、アメリカでは告発された著名人が地位を失っているのに、日本では、なんと、その告発者へのバッシングが起きているというのです。危険な目に遭った経験をツイッターに投稿した20歳の女性には、「証拠を出せ」とか「警察に行けばいい」などと批判が続いたそうです。まさに弱い者いじめです。卑怯な行為です。

 女性は、自分がひどい目に遭った経験を、同じような被害者が出ないようにと願って、勇を鼓して告発したのです。好き好んで言っているのではありません。それなのに、「証拠を出せ」とは何事ですか。いちいち写真を撮っておけというのですか。そんな時、証拠をとれるほどの余裕と力があったら、セクハラの被害など受けません。抵抗する力もなくて、--相手は絶対的に強者です。抵抗したらもっと不利になると思って抵抗もできないのです--屈辱的な傷を受けているのに、「証拠を出せ」とは、まさにいじめそのものです。

 しかも、「証拠を出せ」と投稿する人は、なんの痛みも感じていない人です。被害者に虚偽の告発をされて、名誉を回復したい人なら、証拠を出せもわかります。しかし、そうではありません。全く関係のない人です。そういう人が無責任に投稿しているのです。自分と関係もないことに口を出して、勇気ある人をこき下ろしたいだけの卑劣な人です。人間として最低の人です。こういう人が1人2人ではなくなっていることが、また腹立たしいです。

 わたしたちは、勇気をふるいたたせて告発した人を孤立させたり、言わなければよかったと思わせたりしてはいけない。みんなが勇気をたたえて応援していることを知らせなければいけないのです。そして、それをバッシングする人に、あなたの行為は人間として最も卑劣なことです、人間として一番恥ずかしいことです、と言い続けなければいけないのです。