朝いちばんに、口にする言葉

 新年早々、ためになる話を教えてもらった。 その男性は、朝目覚めるといちばんに、今日の日付をはっきりとした声で口にするのだという。つまり、「今日は、2018年1月〇日です」というように。そうすると今日というこの日は、自分の人生にとって、たった一回しかない大切な日であると思えるのだそうだ。私は自分自身でやってみて、つくづくわかった。確かに日付を声に出すだけで、この日を生きることが、どれほどかけがえのないものであるか、そう思えてくる。ありがたみがしみじみと胸にこみあげてくる。
 その男性は、実はこの話は受け売りで、かつて淀川長治さんが語っていたのだという。淀川さんは、映画評論家で、「日曜洋画劇場」の名解説者であった方で、あの情熱的な語り口をよく覚えていらっしゃる方も多いと思う。自分の心の持ちようひとつで、気持ちを変えられることは理屈だけはわかってはいたが、現実に実行するために何をどうすればいいのか、大切なコツをもらったような気がした。

 よく考えてみると、病気を経験する前の私は、対人関係によって、気持ちを取り乱してしまうことがあまりにも多かった。そして積もり積もった対人関係のストレスが、次第に心身を破壊していくことを知ることになった。仕事にしても学業でも、自分自身が健全に生きられないと感じる場所やひとにしがみつくこと―それは豊かに人間らしく生きたいと願う気持ちとは、正反対の結果を招く。つまり自分が壊れていくといってもいいだろう。権威や利害に基づいた関係性に振り回されないようになれるかどうかを決定できるのは、自分自身でしかないと身に染みてわかった。これはどんな仕事でも同じことがいえるだろう。誠実にかつ正直にふるまうことで、互いの信頼関係を築けないひととは関わりを持たずに生きていく。仕事でもプライベイトでも「愛のある居場所」とは思えないところからは、身を引く勇気をもつことにした。
 世の中は権力を持つ人間が強い。あたりまえのことだ。社会で働いたことのあるひとなら、嫌になるくらい思い知らされる現実だ。しかし、それに翻弄され続ける必要はない。 当然、生きていくためには権力者に頭を下げ、力を借りなければならないこともあるだろう。しかし、私は与えられた病気を機に、これからは自分らしく生きていける方法を見つけていこうと思った。

 それはできるだけのびやかにイキイキと生きていくために、自分を守ることになる。だが、そのためには自己評価を他人にゆだねない覚悟もいる。関わるひとたちを、シビアに見極めていく必要がある。今では、社会的な地位や学問的知識より、人間の本質を見極めることがはるかに重要なことであると信じている。それは確かに判断が難しいだけに、失敗することもあるかもしれない。損をすることもあるだろう。しかし、そんなことは生きていくうえで大した問題ではない、と腹を括ることにしたのだ。
 医師との関係性についても同じことがいえる。患者側が必要以上にへりくだる必要はない。「平等に扱ってほしい」という強い意志を示しながら、スペシャリストとしての医師の見識を聞かせていただく。しかし、イニシアティブをとるのはあくまでも自分自身なのである。誤解を恐れずにいえば、医師のやる気を刺激するのも患者の役目であり、どんなひとでも、それに値する人間である。権利をもっているのだ。



「逢えてよかったひと」を目指して

 社会でずっと仕事をし、経験を積んでいくと、そんな基本的なことはすぐ身に着くと思いがちだ。だが、そう簡単ではない。社会人としての経験はキャリアになるが、その分、垢も身に着く。こうすれば楽ができる、得をするということもわかってくるからだ。私自身があきらかにそうであった。 そうした「せこく」、「みみっちい」考えを持つようになってしまった自分のことに、無自覚になってしまっているだけなのだ。
   友人との人間関係においても、自分に無理を強いてまで、つき合いたくない相手と時間を過ごすにはやめようと私は決めた。しばらく一緒に過ごして、別れたあとに嫌な気分になるひととは、できるだけ会わない。欲望の塊のようなひとたちには近づかないようにする。冷静になって、相手がひとりの人間としてどうなのかをしっかり見る。すると、自分にとって害となる、マイナスのエネルギーを放つひとがいるということにも、勘が働くようになる。何かにつけて否定的な発言をする友人とは距離を置く。無理をしてまで相手の話をがまんして聞き続ける必要はないのだ。それは結局、相手のためにもなる。相手のストレスのはけ口、受け手になっていると感じたら、そこから静かに逃げていく。そのことによって、たとえ友人関係が壊れたとしても、後悔する必要などない。10人と薄っぺらい交流をするより、信頼できるふたりの友達を持ったほうがいい。

 私の目標は「あなたに逢えてよかった」と思われる人間になることだ。そのためにも、おだやかでありながらエネルギーがあふれる美しいカラダつきになり、そばに居て気持ちの良いひとになりたい。私自身が溌剌としたエネルギーを放つ魅力的な人間になれれば、そこからまた実りある人間関係も生まれる。自分の気持ちに陰りがなければ、その結果、からだの治癒系も活性化と信じよう。物事の結果だけに縛られず、意味を見出すことさえできれば、困難さえも乗り越えられるに違いない。気持ちを楽にして取り組み、自分に対してだけでなく相手も責めないひとになろう。
 強く生きていくために、私はどうしても、自分のからだにふたつ並んだごくごく普通の「おっぱい」がほしかった、といってもいい。50を過ぎた歳になっても、乳房を失ったことによる喪失感は予想をはるかに超えていた。そんななかで、失った乳房を取り戻すために乳房再建をしたことは、生きる希望へとつながった。そして生きるための気力をも与えてくれた。今、乳房がふたつ並んだからだになり、以前よりはるかに心に余裕を持った受け応えができる自分がいる。顔の皺や年齢、さらにはひとの評価にふりまわされない自信のようなものを、ここに来てようやく持てるようになった。
 私は夜、寝床に入ると、今日一日、出逢ったひとたちに感謝する。いいことも悪いことも含めて、「生きている」からこそ、経験できたのだとしみじみと思う。眠れない夜には、ベッドの脇に置いてある本に目を通す。マーティン・コーの『人生を変える力』だ。この文章を、もう何度読み返しただろう。

「私たちの人生は一度しかないのです。
小心な人生ではなく自信のある人生を選ぶのです。
不安な人生ではなく落ち着いて人生を選ぶのです。
混乱した人生ではなく平穏な人生を選ぶのです。
人生を無駄にするのではなく、有意義なものにすることを選ぶのです」

いま、ここ…この瞬間に喜びを感じながら、ゆったり、あせらず、おおらかに生きていこうと思う。これからどんな「嬉しい出逢い」があるのか、胸をときめかせながら。

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