「ボルバキア」というのは、宿主を性転換させる、実在するふしぎな細菌のこと。他の生命に働きかけて生殖システムを操作するボルバキアのことを、生物学者の福岡伸一さんは「恐ろしいエイリアンではない。むしろ生物本来の姿を取り戻させてくれる生命体であるといえる」と語っている(『恋とボルバキア』公式パンフレットP.12より引用)。

小野さやか監督のドキュメンタリー映画『恋とボルバキア』には、自分が生まれたときに割りあてられた性別やセクシュアリティに揺らぎや違和感を覚え、それらに抗うように、今この瞬間の「こうありたいわたし」を自ら選んで生きているひとたちがたくさん登場する。アーティストMILKBARの楽曲が全編で使われており、その繊細な歌声に包まれながら、登場人物たちの揺らぐ気持ちが幾重にも重なり漂っているような、どこか浮遊感に満ちた作品だ。

14歳の頃に身体の女性化が始まり、医師から勧められた男性ホルモン投与を拒否し続けてきた「王子」。2歳の頃から女の子として生きている「あゆ」。女性の姿になっているときだけ自分を肯定できるという「みひろ」。妻子と別れ、女性として生きることを選んだ「蓮見はずみ」。彼女は、現在LGBTアイドルグループ「NSM=」(nagoya sexual minority Equal)で活動する「樹梨杏(じゅりあん)」と付き合っている。一方、樹梨杏は、はずみと付き合っているために「偽物レズビアン」と言われ傷ついた体験を語りながら、本心をはずみに言いあぐねて逡巡する。他にも、女装をし、「化粧男子」という店を東京に構えて脚光を浴びる「井上魅夜(みや)」。タクシー運転手の出稼ぎをして3人の子どもの学費を稼ぎ、東日本大震災を機に女装を再開した50代の「一子さん」。そして、彼らをとりまく家族や片思いの相手(井戸隆明さん・成人向け女装雑誌「オトコノコ時代」の編集長)、元パートナーたち。

群像劇のように次々と現れる彼らには皆、それぞれの物語がある。出てくる人は圧倒的に「男の子」として生まれた人が多いんだなぁと思って見ていたら、もともと、女装する男性をテーマにして作られたテレビ番組(フジテレビ『Nonfix』「僕たち女の子」)をもとに、取材の対象を広げて作られたものだそうだ。いわゆる「セクシュアル・マイノリティ/LGBTQ」をテーマにした作品、ということになるのだが、小野さやか監督の眼差しには、その枠やカテゴリーを通しただけでは決して見えない部分に迫ろうとする勢いがある。映画の中では一人ひとりが、それぞれに自分の心身の在りようや自己表現や人生に悩み、上手くいったり上手くいかなかったりして戸惑い、孤独と隣り合わせの自尊心やプライド、あるいは他者を強く想う気持ちに揺れており、誰の物語からも目が離せない(中には、ある程度人生の経験を重ねてきて、穏やかさを手にしている一子さんのような人もいるけれど)。惹きつけられるのは、中身は違っても同じように揺れた経験のあるこちらが、その揺れに共鳴するからなのだろうと思う。

映画には、セクシュアル・マイノリティであることで引き受けざるをえない痛みも、確かにある。しかし、そもそもヒトを「女」「男」だけの枠にあてはめ、異性愛こそが「正しい/まっとうな/普通の」関係性であるかのように振る舞うこと自体が、いかに日々、わたしたちを傷つける乱暴な側面を持つことか。自分の外側に常にまとわりつく、他者や社会が期待する「女」「男」という性別や性役割、あるいは性規範-ときに自分自身に内在化された規範-と、わたしを生きることとの間で葛藤を抱えない人はいない。決められた性別に由来する痛みの根っこにあるものは、たぶん同じなのだ。魅夜さんがそれを、「こうやって生きていかなければいけないらしい、みたいな、そんなオッサンたちの、腐れ年寄りどもの思想が、ホントにムカつく」と表現したとき、あまりに共感できて、わたしは声を出して笑ってしまった。日本に根強くある性規範、性の多様性という事実に不寛容な今の社会に対して、いわゆる女というカテゴリーにいない人がここまで率直に批判を言ったドキュメンタリーってあっただろうか(わたしは知らないので、あれば教えてください)。

話が少しそれるけれど、映画の前半ではずいぶんと世間に対して斜に構えている感じの魅夜さんを「若いなぁ」と思いながら見ていると、映画の後半にはあっと驚く展開が待っている。他の登場人物たちも、それぞれに映画をとおして変化していくのが興味深い。始めは、一人ひとりの個性に魅了されていたわたしも、エンドロールのときには彼らの未来を心の底から応援する気持ちに変わっていた。

それにしても、彼らを分かりやすくステレオタイプにまとめようとせず、多彩な人として、一人ひとりをそれぞれの色合いで描いた小野監督に喝采を送りたい。とはいえ映画を見ている最中は、監督が自身の性別やセクシュアリティ、恋に揺れる登場人物たちに対して、かなり私的な部分にまで距離をぐいぐい近づけて迫っていくところにはヒヤヒヤしてしまった。――もし、わたしがそのようにカメラを向けられたら、わたしはそのことを許すだろうか(おそらくできない)、と思ったからだ。そして、エンドロールが終わり、登場人物の一人ひとりが、あの場面で被写体になることを許した気持ちの底にある覚悟や、揺れる彼らに寄り添い、ときに辛抱強く待ち、受け止め続けた監督への信頼を思ったら、涙が出そうになった。この映画はぜひ、すべての人に見てほしい。自分の中にも確かにある生/性の揺れに、今まで以上にセンシティブな自分、その揺れを抱きとめようとする自分がいることに、きっと気づくと思うから。(中村奈津子)

『恋とボルバキア』
監督・撮影・編集:小野さやか
(C)2017「恋とボルバキア」製作委員会
配給:東風 2017年/94分

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■公式HP http://koi-wol.com/