もう何年も続いている女たちの読書会。次の本は西川祐子著『古都の占領 生活史からみる京都 1945-1952』(平凡社 1917)に決まった。第一回「序章」は私の当番。2017年度京都新聞大賞を受賞した、この本についてはWANで紹介済なので、以下のサイトをごらんください。
WAN女の本屋「わたしのイチオシ」
https://wan.or.jp/article/show/7469
女の目で見たもの、書いたこと(旅は道草・94)
https://wan.or.jp/article/show/7543
レジュメをつくりながら、ふと思い出した。もう30年も前、西川さんの名文に魅せられて自著『関係を生きる女(わたし) 解放への他者論』(批評社、1988)に引用させてもらったことを、すっかり忘れていたのだ。「自立と孤独-雑誌『婦人戦線』の人びとをたずねて」(老いの発見4『老いを生きる場』岩波書店、1987)の文章を。その頃、私は44歳、西川さんも50歳。老いをたずねるにはまだ早い年齢だった。
1970年代はじめ、図書館で『婦人戦線』のバックナンバーを見つけた西川さんは、リブの運動に先駆ける女たちがいたことを知り、まだお元気だった彼女たちを訪ね、10数年間文通を続けたという。八木秋子、松本正枝らにギリギリ出会えたんだ。その出会いはいくつかの文章にまとめられている。
記憶を尋ねるインタビューや資料探しは同時代の人と、過去の人々をつなぐ糸のようなもの。読んでいて、まるで活字が紙面から立ち現れてくるようなハッとする思いをすることがある。書物はそのようにして生まれてくるのか。「あら、なんだかこれ、既視感があるわ」と、ふっと思い出した。
昭和27年(1952年)、小学校3年の私は大阪南部の淡輪村(現在・岬町)から都会の大阪・天満橋に引っ越してきた。近くの大手前会館は今、ドーンセンターになっている。そこで開かれた文芸講演会に瀬戸内晴美と円地文子がやってきた。その頃は近くの幼稚園でも今東光や高橋圭三の講演があった。まだ20代だった文学好きの母に連れられ、よく講演会に出かけたものだ。着物姿の作家たちを「きれいやなあ」と見とれながら、なんだかよくわからないまま大人しく聞いていた。
ただ一つ子ども心に残った言葉がある。瀬戸内晴美が晴れやかな表情で語ったこと。「ある小説を書くと不思議に次の小説のタネが生まれてくる。主人公のことを調べていくと、その影に隠れていた人が現れてきて次の主人公になるの。物語の糸はそんなふうにつながっていくものなのね」。『美は乱調にあり』で伊藤野枝と大杉栄を描いた後、また次の小説が生まれたのだろうか。文学はそうやって受け継がれていくものなのかと、大人になって妙に納得したものだ。
1950年代は、まだ戦後の貧しい時代。天満橋駅構内で靴磨きの少年がせっせと働き、大川の橋の下のバラック小屋に住む子は公衆便所に水を汲みにきていた。南海電車には傷痍軍人が白衣で杖をつき、アコーディオンを弾きながら募金を乞うていた。最後まで残った傷痍軍人は国から何も補償されなかった在日朝鮮人たちだったことを、大島渚のドキュメンタリー「忘れられた皇軍」で初めて知ったのは、1960年代に入ってからのこと。
アナーキズム系雑誌『婦人戦線』は1930年3月号~1931年6月号まで月刊5千部、全16冊が刊行された。「家庭否定」「都会否定」「性の経済」など特集が組まれたという。『婦人戦線』の廃刊の原因は松本正枝の夫・延島英一と高群逸枝との恋愛。松本正枝は身を引くが、高群の夫・橋本憲三は「高群は自分なしには生きていけぬ人」といい、恋愛は終わり、雑誌の終刊後、松本正枝と延島英一は生涯を共にしたという。
八木秋子は若い日に子を置いて家出、運動に走り、治安維持法違反で服役。出所後は「満州」で働き、母子家庭の世話をする。帰国後も母子寮の寮母として働き、1983年、87歳で亡くなる。「八木秋子個人通信あるはなく」が最後の書物となった。
『婦人戦線』の人びとは家族制度の枠を超え、志ゆえに世の少数者となり、そのつど自らの選択を自覚して引き受けていく。彼女たちの人生は、「自立とはひとりになることなのではなく、親しい他人や、最後まで向きあわなければならない世の中との関係をつくってゆくことだと教える。社会性なくして自立はあり得ない」と西川さんは書く。社会的であったがゆえに、自立的たりえたのだ。
翻って私はどうだったか。この本を引用した頃、まだ結婚制度の中にいた私は、「これまで社会的でなかったために、自立的ではなく、そして奴隷的であった。その反省からこれからの私は、私なりの老後を生きるためにも「個」を選びとるべきだと思っている」と書いた。その1年後に離婚して一人になったはずなのに、ああ、恥ずかしい。いまだ私は「個」を選びとれていない。
あれから30年、今まさに老いのさなかにあるとはいえ、なお家族のしがらみから抜け出せずにいる。シングルマザーの娘と孫と暮らし、離れて暮らす母も少し体調を崩して入院中なのも気がかりだ。カッコよく「自立と孤独」なんて、とってもいえない。でも志だけは高くもちたい。
「自立した人たちは、かくしゃくたる老年の次に来る不自由な老年についても、若い世代を当にはせず、呼びかけられない限りは後を向かないつもりと見えた。では訪ねるのはこちらのすることなのだ」と、50代の西川さんは書いた。そう、私も、できるなら、身近な人々と、過去を自覚的に生きた人々とを結びあわせて、あるかなきかの「関係」の糸を切らずに、私なりの「自立と孤独の老い」を、どこまでもたずねてゆきたいものだと思う。