本書は、ボーヴォワールが1966年から67年の間に執筆した中編小説で、92年にリール第Ⅲ大学の研究誌に掲載されたものである。ながらく一般の読者の目にはふれることがなかったが、2013年にレルヌ社から単行本として出され、今回日本ではじめて翻訳されることとなった。
 本書の魅力は多岐にわたるだろう。話の筋は、ニコルとアンドレという初老にさしかかったカップルが、ソ連時代のモスクワに出かけ、旅先ですれ違いが起こるというものである。
 ボーヴォワールを思わせるニコル、サルトルを思わせるアンドレ、そして、ソ連にすむアンドレの先妻との娘マーシャ(サルトルのソ連の恋人がモデルか)が登場する。小説は、ニコルとアンドレの各々の視点から交互にストーリーが進むユニークな構成だ。カップルの心理描写は見事としかいいようがない。
 身体が思うように動かなくなり、若い世代といると尚更自分の年を感じる。それは中々口にしにくいし認めたくはない。そして、長年理解し合っていたつもりのパートナーに突然感じる底の抜けたような感覚。女であることから制約をうけ、女を否定しようとして、生きてきたニコル。片や男女差別のない国ソ連で育つ新世代の若者のマーシャ。
 当時のソ連は、スターリン批判のあと中ソ対立が激化していた。ソ連は60年までは経済も成長し、西側知識人から擁護するものも多かった。しかし、小説においてアンドレは、この国に失望を味わうことになる。当時の時代の空気をつたえるソ連の描写もこの小説の魅力といえよう。
 サルトル研究者の鈴木道彦氏が、本書が書かれた翌年にあたる68年、フランスの図書館で、調べ物をしているボーヴォワールに話しかけたところ、彼女は「老い」について調べていると答えたそうである(『余白の声 文学・サルトル・在日 鈴木道彦講演集』)。今年はボーヴォワール生誕110周年であるから、当時の彼女はちょうど60歳になったばかりで、主人公のニコルと同じくらいである。この時期に老いのテーマにとりくんだボーヴォワールの先見性には驚かされる。ちなみにボーヴォワールの『老い』は1970年に刊行されている。
 この小説を読んだ読者の感じ方も、性や世代によって大きく異なってくるものと思う。また日本の読者にはどう感じられるだろうか。それこそ老境にさしかかったカップルがお互いの感想を述べ合うことで、カップル間の理解が深まるかもしれないし、亀裂がはいるかもしれない。