
今月は、ポーランドのヤドヴィガ・サルネツカ(Jadwiga Sarnecka)をお送りします。ポーランドのサログロドで1877年に生まれ、1913年クラコフで亡くなりました。なお、生年はつい1ヶ月ほど前に正確な情報が判明しました。
ヤドヴィガに関しては、楽譜無料ダウンロードサイトIMSLPで「女性作曲家」カテゴリーをランダムにクリックしていくなかで、偶然の出会いをしました。今まで一度も俎上に上がることのなかった女性作曲家です。
楽譜をさっそく見ますと、複雑な不協和音、でも何か他とは違う面白そうな書法です。そこに、幸いにも若きポーランド人ピアニストの音源が見つかりました。演奏の素晴らしさもさることながら、一瞬にして作品に心を奪われたのです。ツボにはまったという感覚です。あまりにすごい才能ではないか? これほどの方がどうして世に出ていないのか? これが今月のエッセイのきっかけとなりました。
ヤドヴィガは早くから類まれな才能をあらわしましたが、3歳で母親が病死します、おそらく結核だろうと言われています。そして8歳か10歳の時には父親も結核で亡くなり、父の再婚相手(養母)に育てられます。ヤドヴィツカは末っ子でした。ワルシャワにいる遠縁の援助もありましたが、それでも義母のささやかな収入では日々の食糧にも困り、暖房も入らない家で極貧の暮らしを送ったそうです。ヤドヴィガのせっかくの才能も、この環境では継続が困難でした。現在のウクライナに属するスラヴタ(Slawuta)での暮らしでした。
その後、母親の遠縁のサポートも得て、ワルシャワ音楽院に入学します。アパート代はピアノ教師としての収入で相殺し、なんとか生活を賄いました。師事した高名な教師は、アレクサンダー・ミハロフスキ(Aleksander Michałowski )と言われています。ミハロフスキは、ワンダ・ランドフスカの教師でもありました。ランドフスカは後年、チェンバロ奏者として高名な人です。
その後、やはり遠縁のサポートでウィーンに留学し、テオドール・レシェティツキ(Teodor Leszetycki)に師事しました。また、彼女は詩も好んで書きました。なおこの際には、日本美術のコレクターとして名を馳せたポーランド人フェリクス・ヤシェンスキ、のちに日本文化を愛した結果、ミドルネームに「マンガ」と入れたことでも有名な人物がパトロンだったのではないかと、一説には言われています。ヤシェンスキがコレクターとして集めた美術品は、後年クラコフに建てられた日本美術技術博物館に所蔵されています。
教師たちからその高い実力を認められ、1902年にはデビューを果たし、非常に高い評価を得ます。コンサートツアーでクラコフ、ワルシャワ、リヴィウ等、音楽の盛んな土地の数々で成功を収めました。でも、彼女が一番したかったのは作曲でした。恐らくクラコフで勉強したとされています。ゼレンス(Żeleński )、ショプスキ(Szopski)、メルツエル(Melcer) に師事しました。その後も奨学金でパリ留学を希望していましたが、あいにく叶いませんでした。この間、相変わらずコンサート活動は活発で、また生徒へのピアノレッスンも盛んに行い収入を得ていました。

最初の作品は1898年と記録されています。当時のポーランドの社会では、彼女の作品への評価は決して芳しいものではありませんでした。圧倒的な男性社会であり、作曲家も批評家も全て男性たちです。パワフルな音楽表現、不協和音の多用、アトーナル(無調)またはポリトーナル(多調)も散見します。圧倒的な個性は、彼女が女性ゆえに、男性たちが固定観念として持つ「女性らしい作品」のイメージを超えていたようです。<半人前、内容がない、暗い、形式が不可解、奇怪>と、ありとあらゆる酷評を受けました。同じ作品を男性が書いていたとすれば、はたして同じ評価だったでしょうか? それでもヤドヴィガは前進するのみ、作品を書き続け、自費出版に漕ぎつけました。
そのうち、少しずつ運命は彼女にも微笑み始め、前述のフェリクス・マンガ・ヤシェンスキ(Feliks „Manggha” Jasieński)など有力者が出資し、ライプツィッヒの出版社から作品が世に出ました。彼女の才能を認める著名人がしだいに増え、好意的な評論も出るようになりました。
1910年、リヴィウ(Lviv)で作曲家コンクールが行われました。ポーランドを代表するショパンの生誕100年を記念したコンクールでした。この時、彼女は第2位を受賞します。バラード第4番が受賞曲でした。ちなみに第1位を受賞したのはシマノフスキ、今に至るまで広く知られたポーランドの男性作曲家です。ショパンほどの知名度はないにしろ、多くの素晴らしい作品を残しました。また、コンクールの開催されたリヴィウは、現在ではウクライナの街となりましたが、当時はポーランド文化の中心地でした。
その後彼女は、並みいる男性作曲家のなかで唯一の女性作曲家として、論文の執筆依頼を受けます。タイトルは「音楽作品における創造性対ヴィルティオーゾ(名人芸/名手)」。しかしながら、この評価は高いものではなく、彼女の作品への否定的な批評も相変わらず続き、とうとう鬱状態に陥ってしまいます。それでも作品は書き続け、不協和音の多用とポリトナリティ(多調)に傾倒し、今までにないアバンギャルド(斬新)な作品が生み出されました。意地悪な男性批評家は、シューマンやショパンや様々な作曲家の要素を少しずつ取り入れた、言ってみれば「パクリ」で、オリジナリティが乏しいと酷評したのです。
しかしながら、ヤドヴィガは作曲家としてのみならず、社会に対峙し、どこまでも果敢に戦う女性でした。社会運動に積極的に参加し投獄された姉妹もそばにおり、影響を受けました。男性受けする「女らしさ」を持つ女性を好まず、むしろ批判的に見ていたことは作品中にも表現しています。彼女の作品には、ソナタ作品9、4つのインプレッション作品12、4つのバラード、練習曲ヘ短調Quasi Dolore、幻想曲変ロ短調などピアノ曲が多数、そして初期には3つの歌曲も書き、そのうち1曲は歌詞も自作だったそうです。
そして出版は次第に少なくなっていきました。鬱状態も回復しないなか、残された手書きの譜面を見れば、手が震えたように写譜は雑になって行き、間も無くそれすらも途絶え・・・彼女の名前すら聞かれなくなっていきました。バラード第7番、ソナタ、変奏曲集などは途中まで書きましたが、そのまま完成することなく残されました。そして、第1次大戦が始まり世の中は激変し、彼女はすっかり忘れ去られた存在となって行きます。
1913年、貧困のなか、結核により亡くなりました。生まれてすぐから生涯苦しめられた病でした。遺体はクラコフのレコヴィツ墓地に埋葬されたとされていますが、伝えられている墓は今もって見つからず、恐らく、貧困層が集められた共同墓地に眠っているのではないかと言われています。
彼女の作品が男性名だった場合、果たしてここまでの酷評を受けたでしょうか? 作品自体の価値はなんら変わるわけではなく、男性たちの固定観念から、溢れる才能の女性作曲家への複雑な感情、嫉妬と言ってもいいほどの冷遇、ヤドヴィガが通らなくてはいけなかった人生に思いを馳せた時、不覚にも涙が出てきます。
ポーランドのピアニスト、マレク・シュレゼル氏はヤドヴィガ・サルネツカをテーマに、音楽院博士課程の博士論文をお書きになりました。楽譜こそあれど、それ以外の情報は極端に少なく、ためらっていたところにマレク氏を知るに及び、ホームページを通してご連絡を差し上げました。
2007年、マレク氏はクラコフ国立音楽図書館で、論文のテーマを1900年代前期のポーランド作品のリサーチに定め、その過程で偶然にもヤドヴィガの作品に出会い、楽譜を実際に弾いてみて、その素晴らしい音楽性に大きな衝撃を受けたそうです。印刷されていない楽譜も数あり、図書館の最後の閲覧記録は1970年、長いこと、誰の目にも触れていませんでした。なかにはすでに死期の近い頃の、筆の弱い鉛筆書きも。たとえ自分は弾けなくても誰かに弾いてもらいたい、きっと彼女はそう思って渾身の力を振り絞って書き残したのだろうと衝撃を受けたそうです。この作品を世に出すのは自分以外にいないと、その後のサルネツカ作品演奏を決意したそうです。最新版のまだ世に出ていない楽譜類を含め、ポーランド誌の記事など、あらゆる貴重な資料を惜しげもなくお送りいただき、大いにお世話になりました。
その記事「Critical Error クリティカルエラー 」に、音楽批評家がいかに間違いを起こすかなど、考えさせられる文章が散見しています。ヤドヴィガのみならず、彼女とコンクールを争ったシマノフスキも、作曲家として世に出ながらも、批評家としての活動が主だった男性が、個人的な嫉妬から、たいそう悪い批評を書いたとのことです。ヤドヴィガに関しては、「女性にこんな作品が書けるわけがない、絶対に男性の書いたものだ」と、男性が当然優れてるという強い固定観念と、男性のイメージする「女性らしさ」の固定観念が当時はとりわけ強かったことが記されています。
なお、日本文化コレクターのマンガ・ヤシェンスキ氏の影響から、ヤドヴィガは日本芸術の素晴らしさ、美しさに深い感銘を受け、日本に関する詩を2つ書いているそうです。残された手書きの詩は、いずれクラコフで拝見できる日があればと願うところです。筆者はヤドヴィガが、その時代日本を知っていたこと、想像を巡らせていたことを、たいへん光栄に思います。
上のつの写真は、Wawel Royal CastleにあるJozef Mehoffer による戦争と平和の天使像で、ヤドヴィガの顔を写したものとされているそうです。(マレク・シュレゼル氏提供)
参考資料/References
ヤドヴィガの作品のリサーチを進めているポーランドのピアニスト/マレク・シュレゼル(Merek Szlezer )のホームページ
http://www.marekszlezer.com/en/home
ポーランド誌の記事(ポーランド語) 英題 “Critical Error”
http://meakultura.pl/edukatornia/krytyczna-pomylka-1867
作曲家のウィキペディア(ポーランド語)
https://pl.wikipedia.org/wiki/Jadwiga_Sarnecka
日本美術技術博物館についてのウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本美術技術博物館“マンガ”館
マレク・シュレゼル氏による博士論文(ポーランド語)に関心のある方は、WANを通じてご連絡いただけばファイルをお送りいたします。
この度の音源は「練習曲~ドローレ風に」Etude quasi un dorole をお聞きいただきます。音楽用語のdoloreは、痛みを伴うような深い悲しみ、慟哭などの意味を持ちます。
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