女の本屋

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グレーテルが赤い実を食べるとき yuki

2010.01.21 Thu

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yokoさんのお子さんたちとの思い出の詰まった「美味しい」絵本をめぐるエッセイを受け、私も、食べ物を通じた人と人との関係性について考えてみたいと思います。

子供のころに憧れた「美味しい」お話といえば『ヘンゼルとグレーテル―グリム童話』 を思い浮かべます。親に棄てられ、お腹をすかせた兄妹の前に突如現れる「お菓子の家」はとっても魅力的で、部屋のどこをチョコレートにし、どこをクッキーにするかいろいろと想像したものです。

ご存じのとおり、その「お菓子の家」は魔女が子供をおびき寄せ、食べてしまう罠であり、魔女は兄のヘンゼルを小屋に閉じ込め太らせて食べようとします。そのことを妹からきいたヘンゼルは、食べ残しの骨をさわらせることによって、目の悪い魔女を欺き、自分が太ったことを悟らせないように工夫します。そして、とうとう、しびれをきらし兄を食べようとした魔女をグレーテルが退治し、めでたしめでたしとなります。

小間使いとしてこき使われるグレーテルにくらべて、ヘンゼルの魔女の家での生活はなかなか快適そうです。結局、魔女を退治したのもグレーテルですし、ヘンゼルはひたすら食べてばかり。ここでふと、もし小屋に閉じ込められたのがグレーテルだったとしたら、どうなっていたのでしょうか。グレーテルもヘンゼルのように与えられる御馳走をひたすら食べて太っていくのでしょうか。想像の中のグレーテルは、「いいえ」と答えます。「小屋に閉じ込められただけでも怖いのに、どうして私の身体の中も自由にさせなきゃいけないの?」と。

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食と人々の関係を少女マンガのフード描写で読み解く料理研究家の福田里香さん によれば、物を食べるということは、腹の底を見せるということ。物を食べると最終的には排泄にいたるわけであり、口から肛門までのラインを人に見せてしまうことになる。だから、食べるシーンのない人は底の見えない謎めいた人となり、また、人々が一緒に食事をとるシーンは、彼らが仲間であることを読者に強く意識させることになります。

フードという切り口が、物語の登場人物たちの関係性をみるのにこんなにも有効だなんて、とても興味深いですね。確かに、物を食べるということは、口を大きくあけ、外界に対して自分を開くことです。一緒に食事をすることとは、こういった時間を共有することであり、そこから親密性というものが強く呼び起されるのではないでしょうか。

しかし、食事は、生きることに必要で、ほっとする時間を与えてくれるポジティブなものである反面、食べ過ぎてお腹をこわしたり、メタボになったりするやっかいなものでもあります。
先ほど、私は福田さんにならい、食事をすることは自分をオープンにすることだと言いましたが、ある意味、これはとても無防備な状態です。食べ物は、生きることに不可欠なものではありますが、私を必要以上に太らせたり、具合を悪くさせたりもする、つまり、私の境界を侵犯したり、撹乱したりする危険なものでもあります。

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岩館真理子『キララのキ 1 』 (集英社、全4巻)は、キララという幼いときに死んでしまったはずの女の子が、高校生になった十秋という少女の前に現れ、それをきっかけとして、十秋は本当の母親を捜し求めるという物語なのですが、同時に十秋の継母も自分の子を捜し求めるという物語でもあります。
このマンガの食事のシーンは常にスリリングです。十秋は小さいときから食が細く、継母のつくる手の込んだ料理を気づかれないようこっそり捨てたり、食べてはトイレで吐いたりしていました。それは、高校生になってからもかわらず、そんな十秋を見て、継母は、いっぱい食べるのに、でもやせっぽちねとぽつりと言う。十秋にとって継母のつくる食事とは、自分を愛さない母・自分が愛せない母による支配の象徴です。

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ジェンダー化された世界の中で、食べ物を挟んだ女性同士の関係は、緊張をはらんだものになると思います。なぜなら、美醜の問題が関わってくるからです。山岸凉子「鏡よ鏡…」(『シュリンクス・パーン―自選作品集 (文春文庫―ビジュアル版)』 収録)では、白雪姫の童話をモチーフに、美しい女優の母と太ってさえない娘との関係が描かれています。美しい母に心酔する娘と、太って醜い娘をお荷物とさげすむ母。二人の食事シーンは冷え冷えとしており、自分の体形を維持するためベジタリアンな母は、脂っこいものが大好きで大食らいの娘にいらだちをかくしません。結局、母の苛立ちは自分の若さへの嫉妬と知った娘が家を出て、壮絶なダイエットをし、アイドルとしてデビューするところで物語は終わります。

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本家である童話の『白雪姫 (グリム童話)』 で妃が白雪姫を殺す最後の手段として「りんご」という食べ物を用いたことは象徴的だと思います。胸ひもや櫛ではなく、りんごが何故最後の手段とされたのか。それは、母と娘にとって食べ物が、命をつなぐ根源的なものであり、母が娘を支配するもの(主に容貌を)でもあるからだと思います。

私は今まで、食事のある種ネガティブな面について書いてきましたが『白雪姫』 の童話で白雪姫が母からもらったこの「りんご」を食べたという事実に希望を見出したいと思います。
先ほど紹介した「鏡よ鏡…」では、母と娘は分かり合うことはなく、二人の関係は断絶しています。娘は母の苛立ちを嫉妬としてしか捉えません。もしかして、そこには、食事を楽しむことができなくなった嘆き、過去の自分を悼むという気持ちが隠されているかもしれないのに…。

白雪姫が母からりんごを受け取ること、母の過去であったり、思いであることを受け取ること、それは大きな痛みをともなうことかもしれないけれど、母と娘の新しい関係のなんらかの契機であると思います。
だから冒頭のグレーテルが、お菓子の家の魔女から食べ物を受け取って、一口かじる時、グレーテルは新しい扉を開くのだと思います。

次回「台所という場所」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから








カテゴリー:リレー・エッセイ / yuki