ほぼ25年ぶりという養老孟司の完全書き下ろし本『遺言。』を読む。

 「目に光が入る、耳に音が入る。これを哲学では感覚所与という。動物は感覚所与を使って生きている。動物が言葉をしゃべらないという疑問は、このことから解ける。解けるような気がする」。

 ふーん、著者の大好きな「まる」という猫とも、言葉ではなく、「感覚」でしゃべっているんだ。

 感覚器は「外界からの刺激を受け取る」、つまり外界の変化に依存して働く。外界が変化しなければ、自分の方で変化を起こす。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を通して。

 ところが、五感に基づく「感覚」を「意味」に変換してしまうのが「意識」。それは「無意味な存在を許さない」という極限の差別に行き着いてしまうことさえある。それに、一つひとつが「違う」はずの感覚を、「理論」を通して共通の「同じもの」につくり変えることが科学だと錯覚してしまうこともある。

 「差異」と「同一性」は人類の抱える大問題だ、と著者は言う。科学とは「我々の内部での感覚所与と意識との乖離を調整する行為としてとらえることができる」はずだった。ところが今は、「違い」を主張する感覚所与が排除され、「同じ」ものに統一しようとする社会に我々は住んでいる。デジタル社会は、作為的な「間違い」ですら、それを押しつけようとしてくる。

 そこで著者は、「科学の基本は、感覚から意識へ、事実から理論へ移行する、そこにある。いわば私自身はそこに引っかかったまま、とうとう人生をムダに過ごしてしまった、というべきかもしれない。事実から理論へ、そんなこと、本当にできるのか?」と本書を結ぶのだが、これが80歳を迎えた養老孟司の今の心境なんだ、なるほどなと思って読み終えた。

 著者のメッセージは、とりあえずは「からだに聴け、意識より、感覚を」ということかな。

 この夏の終わり、またまた慌ただしい時が流れた。90代の母と叔母を熊本から京都に迎え、二人にとっても、娘と孫にとっても、みんなが快適にスムーズに日々を送るためには、「知識はいらない、知恵と工夫があればいい」と、いたく実感する毎日だった。今まであんまり使ってこなかった「ない知恵」をふり絞り、あれこれ工夫を凝らし、考え、そしてからだを思いっ切り使って動くのも久しぶり。ちょっとした気遣いと手助けで、一つひとつの細かい問題を解決していくうちに、アッという間に夏は過ぎ、秋の気配が、そろそろ近づいてきた。

 養老孟司がいうとおり、はじめに「感覚」あり。「意識」はその後でいい。

 人間にとって「喜怒哀楽」は最後まで残る感覚なんだ。それを大事にしていこうと思う。そしたら不思議に、相手と気持ちが通じ合う。それには知恵と工夫が役に立つ。

 小学2年の孫娘にも学ぶことがたくさんある。子どもは「感覚所与」で動くんだな。90年近くの歳の差を乗り超え、スーッと相手の気持ちに入っていく。受け止める方も、それに、やわらかく応じる。お薬当番はもちろん、骨折して右手を使えない叔母のために入れ歯のお掃除も、遊び感覚で楽しくやってくれる。合間に秋の運動会の「ドラえもん」のダンスを踊って賑やかに。もともとわがまま娘なんだけど、なんか、とっても自然なやりとりが、うれしい。

 子どもの頃、お転婆だった私の母は、昔、よく男の子と喧嘩をしたらしい。「男は弱かよー」が口癖だ。この間、喧嘩に勝つ極意を孫に手ほどきしてくれた。

 「最初は黙って相手をじっと睨む。向こうが焦れて何かいってきたら『それが、何ね』とピシャリと言い返す。相手が我慢できずに先に手を出してきたら、間髪を入れず、すかさず一発、殴り返す。そしたらもう、こっちの勝ち。相手はさっさと逃げていくけんね」というのには、みんなで大笑い。

 母は9月13日、95歳の誕生日を迎えた。大正12年生まれ、関東大震災の年だ。

 転居のためのさまざまな書類整理や手続きも無事、終わった。母は軽い認知症があり、私が代理でしないといけない。やれ住民票の写しだ、身分証明書が必要、マイナンバーの提出等々、用意しなければいけない書類が煩雑で大変。

 介護ベッドも二つ並べて二人でゆっくり眠れるらしい。母たちの部屋と私の部屋、同じフロアを何度も行き来するが、時間と空間を互いに確保できるのは助かる。

 心臓にペースメーカーを装着している母の「障害者手帳」再交付のため、診断書をいただきに第二日赤へ。叔母のX線やCT検査の診察に別の病院へ車椅子を押して行く。京都の街中は近くに役所や病院、福祉施設があるので、ほんとにありがたい。

 40年前、障害者解放運動で若い医学生たちといっしょに「そよ風のように街に出よう」と、車椅子を押して街に出かけた頃のことを思い出す。あの頃は街に出る障害者も少なく、駅や店先でたびたび理不尽な障害者差別を受け、よく喧嘩したものだった。当時に比べると今はずいぶん対応がよくなった。でも本質は、それほど変わってないのかもしれない。

 娘が工夫してつくってくれる食事を、みんなでおいしくいただく。昔の人は感心するほどよく食べる。食欲があるうちは大丈夫だ。買い物の量も増えたので毎週、生協の個配を頼むことにした。ぼちぼち叔母に、お手製の座禅豆や高野豆腐をつくってもらおうかしら。

 お盆すぎ、古くなったクーラーの入れ換えと新しく洗濯機を買う。洗面所の不具合で水回りの修理を、もと技術屋の私の男友だちに頼む。新しい製品に全部取り替えれば簡単なのだが、部品を買ってきて洗面所の下に潜り込み、汗みどろで修復してくれた。ああ、なるほど、確かな技術の一つひとつにも、知恵と工夫と丁寧な作業が大事なんだと、横で見ていて感心しながら感謝した。

 このところ台風や豪雨、それに北海道の大地震など天変地異が相次ぐ。いつ、どこで何が起こるかわからない。ひとごとではないが、被災された方々はどんなに心細いことだろう。

 自然界は、人知をもって計り知れないところで動いている。ヒトの力なんて、たいしたもんじゃない。それでも生き延びていかなくてはならない。じゃあ、どうやって? うーん、自然や感覚に聴くしか、ないかなあ。