ムスリム女性に救援は必要か

著者:ライラ・アブー=ルゴド

書肆心水( 2018-09-20 )


 イスラーム世界では女性は学校にも自由に行けず、ヴェールを被らないと外出できず、一夫多妻や夫の暴力に苦しめられていて、時には名誉の名のもとに殺されてしまう。それほどにムスリム女性は虐げられている…こうしたイメージは日本でも広く共有されている。ムスリム女性は抑圧されている、ムスリム女性の権利は侵害されている、云々。(そういえば云々をでんでんと読んだスゴイ首相がおりましたね…)
 これらの「ムスリム女性の権利は侵害されている」系の言説は、実は非常に政治性が高い。9.11以降には、アメリカをはじめとする欧米諸国がイランやアフガニスタンに侵攻する際、侵攻の正当化に利用されたこともある。この政治性に真正面から向き合い、そこに内包される問題を一つひとつ丁寧に明らかにしたのが今回紹介する『ムスリム女性に救援は必要か』である。
 本書は、Lila Abu-Lughod, 2013 Do Muslim Women Need Saving? Harvard University Press, Cambridge, Massachusetts & London, England. の全訳である。著者のライラ・アブー=ルゴドはハーヴァード大学で人類学の学位を取得し、現在はコロンビア大学で教鞭を執る。本書を捧げられた彼女の母、ジャネット・アブー=ルゴド(1928-2013)も社会学者・歴史学者として広くその仕事が知られている。なおパレスチナ出身の父、イブラーヒーム・アブー=ルゴドもまた著名な政治学者である。中東にルーツを持つアメリカ人として、著者がアメリカの学術的な雰囲気のなかで育っただろうことは容易に想像できる。長じて彼女は中東をフィールドとし、ジェンダーや女性の問題に取り組んできた実績を持つ、アメリカを代表する人類学者の一人となった。
 本書の意義は、文化人類学で扱う「現地」の情報やその分析よりはむしろ、21世紀初頭のアメリカやヨーロッパに対する鋭い社会批判にある。彼女が本書で取り上げるのは、現在の欧米の中東政策において実は中心的役割を果たしている、ムスリム女性の表象をめぐるポリティクスである。彼女はそれを、長年にわたる自らの、あるいは旧知の女性の日々の経験に基づき批判的に検討し、表象の誤謬を暴く。だからこそ本書は、文化人類学者だけではなく、むしろジェンダー研究者、開発学の専門家や実践家、政治学者、政治家、国際関係学者、宗教学者、それらを志す学徒など、彼女がギアーツを引用して言うところの「一粒の砂から世界を見」ようとはしない人たちにこそ、読まれるべきものなのである。
 先進国で起こったフェミニズムを批判的に継承/あるいは現地語として用い換骨奪胎してきた第三世界フェミニズム(第三世界の女性の経験を正面から捉えようと試みるフェミニズムという意味でここでは使う)は、フェミニズムやジェンダー研究の世界では、いまだゲットー化される傾向がある。本著の核が、欧米での「ムスリム女性の権利」や「ムスリム女性」の表象への批判であることは論を俟たない。表象形成やその流通過程で、イスラーム圏出身のムスリム女性、あるいはフェミニストやジェンダー研究者らが積極的役割を果たしている場合も少なくない。欧米のフェミニストやジェンダー研究者たちのなかには、自分たちが実在するムスリム女性についてほとんど何も知らないままに「ムスリム女性は抑圧されている」という「定説」を信じ込み、さらにはその事実に自覚的ではない者もいる。本書のもともとのターゲットは、こうした、社会問題には敏感でありながら、その実態把握には関心のない欧米の善意の人々である。欧米とは政治的な文脈がやや異なるが、現代の日本社会に生きる人々にも本書の主張は有効性であろう。なぜなら、教養のある多くの日本人もまた、9.11以降の現代政治の文脈で政治的に利用されてきた「ムスリム女性は抑圧されている」という言説を、条件反射のように受け入れているように見えるからである。本書は、この特定の言説が政治利用される過程を丁寧に描いた、第三世界フェミニズムおよび人類学の優れた成果である。本書の日本語訳の意義はそこにある。ムスリム女性の表象や「ムスリム女性の権利」なるものを、21世紀のグローバルな政治状況という文脈に位置づけたときに何が見えてくるのか。それはぜひ本書を紐解いていただきたい。
 ゲットー化された感のある第三世界フェミニズムだが、それは幾重にも絡まりあう力関係の只中の差別や、重なり合う構造を視野に入れつつ、不均衡な力関係を丁寧に紐解いていくことを志向する。そのような志向にこそジェンダー学の可能性も力も宿る、というのが訳者二人の共通見解である。どこに生きようと常に多層的な力関係と多様な権力に晒されるのが現代社会の現実であるなら、第三世界フェミニズムこそ、ジェンダー学の最先端とは言えないだろうか。
 「個人的なことは政治的である」とは、第二派フェミニズムの金言である。本書に出てくる市井の女性たちの経験は個人的でありながら、グローバルな経済構造や政治状況の影響を受け、そしてそれを形作ってもいる。彼女たちの経験とその解釈は、「個人的なことがいかに政治的か」を余すところなく我々に教えてくれる。それらを導きの糸として、「先進国の恵まれた我々」と「イスラームに虐げられるかわいそうな彼女たち」という単純な二項対立に絡め取られるのではなく、その二項対立を脱構築し、揺るがし、そしてその先に思いを馳せてほしいと、訳者の一人として願う。
 訳者の嶺崎と鳥山はアブー=ルゴドと同様、エジプトをフィールドとする文化人類学者であり、ともにジェンダーを専門とする。訳者の一人、嶺崎はJICAエジプト事務所に、ちょうどアブー=ルゴドが5章で論じた、女性の権利問題が沸騰した時期に現地採用の在外専門調整員として勤務した経験がある。それは開発学界隈のジェンダー専門家がいかにムスリムの気持ちや論理を知らないかを実感し、日々親しく接するエジプト人女性の言語と、援助界隈の言語との明らかな落差、通じなさにえもいわれぬ違和感を覚える日々だった。あの違和感が、個人的には、この本の訳出につながった気がしている(ともあれ援助の現場を垣間見、様々な経験をしたという意味では貴重な日々で、JICAには感謝している)。他方鳥山は、エジプト人男性と現地で結婚し、拡大家族とともに暮らす経験から、日本における「中東の女性たち」の消費のされ方に大きな違和感を抱いた経験を持つ。
 本書が広く読まれ、日本の人々のムスリムや、第三世界のジェンダー状況に対する理解が深まる一助となることを願っている。