
(c)2018「フジコ・ヘミングの時間」フィルムパートナーズ
ドキュメンタリー映画「フジコ・ヘミングの時間」(監督・小松荘一良 2018)の冒頭シーンに「人生は、私を愛する長い旅」という言葉が流れる。
フジコ・ヘミングは、パリの古いアパルトマンに猫2匹と犬1匹と暮らしている。80歳を過ぎた今も、ワールドツアーを年間60本。イギリス、ハンガリー、スロバキア、ドイツ、ウクライナ、モルドバ、フランス、日本、アメリカ、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ブラジルと10カ国以上に及び、来年はぜひ、アフリカを訪ねたいという。
海外公演中、お留守番の猫たちのお世話は、パリ在住の日本人とフランス人の、ゲイの2人がみてくれる。犬はベルリンの友人宅に預けて。
ラストシーンは、2017年12月の東京オペラシティでのソロ・コンサート。フランツ・リスト「ラ・カンパネラ」をフルバージョンで収録。あの難曲を超絶技巧で弾くのではなく、豊かで、あたたかい色あいの音が、聴く者の心に、ひたひたと響いてくる、もう、ため息が出るような演奏。フジコ・ヘミングが、「魂のピアニスト」と称される所以だ。
フジコ・ヘミングはロシア系スェーデン人の画家・建築家のヨスタ・ゲオルギー・ヘミングとピアニストの母・大月投網子の長女として、母の留学先・ベルリンで生まれる。戦前、日本へ帰国後、東京の暮らしに馴染めない父は単身、家族をおいて日本を去る。母は、ピアノを教えて暮らしを支え、フジコと弟ウルフを育てた。フジコへのピアノレッスンは、ことのほか厳しかったという。
17歳でデビューコンサートを果たすものの、中耳炎で右耳の聴力を失い、東京芸大卒業後、ドイツ留学をめざすが、一度も父の母国に入国していないため無国籍となっていた。駐日ドイツ大使の計らいで難民パスポートを得て、ベルリンへ留学した時は、もう30歳になっていた。優秀な成績で卒業後、ウィーンでのリサイタルのチャンスに恵まれたものの、公演1週間前に風邪をこじらせ、今度は左耳の聴力も失うアクシデントに見舞われる。失意のなか、それでも音楽活動を続けて、やがて母の死後、1995年に日本へ帰国。
神さまのいたずらか、思し召しか。60代での遅いメジャー・デビューが待っていた。1999年2月、NHK「ETV特集」「フジコ~あるピアニストの軌跡」が反響を呼び、同10月、東京での復活リサイタルを皮切りに、本格的な音楽活動を再開。カーネギーホールでのリサイタルをはじめ、世界を駆けめぐる多忙な日々。それでもパリの自宅で毎日4時間のレッスンは怠らないという。
たまたま日曜日にテレビをつけたら、NHKの「あの日、あのとき、あの番組」で20年前の「ETV特集」が再放映されていた。下北沢時代のフジコと今のフジコと。少しも変わらず、自分を失わない、いい人生だなと思った。
もう一人のジャズピアニスト・秋吉敏子、88歳。10月、アメリカのミッドアトランティック芸術財団から「ジャズの生きた遺産賞」が贈られた。米ジャズ界の最高栄誉「ジャズマスター賞」に選ばれたのは、日本人でただ1人。9月には東京・上野で、夫でサックス奏者ルー・タバキンとの共演50周年記念公演を、1日2ステージ、見事な演奏で終えたとか。今、温めている新曲は「自らの人生を振り返る曲にしたい。少ない音で、シンプルで荘厳な曲を書きたい」と毎日新聞の取材で語っていた。
もう20年も前になるかな、秋吉敏子を京都にお呼びしてコンサートを開いたのは。
1987年、MASAが、サックスの修行に大阪からニューヨークへ渡米。女たちでMASAを送り出す会を開いてから10年。ニューヨーク・ハーレムに住み、サックス奏者として「Don’t kill(殺すな)」などの曲を携え、黒人ピアニストやギタリスト、ドラマーと「Swing MASA」バンドを組んで、アメリカで活躍していた。
京都で中西豊子さんが立ち上げた女性の企画会社「フェミネット企画」で、MASAの日本ツアーコンサートを企画。「秋吉敏子さんを、ぜひ呼びたい」と、思い切って直接お願いしたら、なんと秋吉さんから快諾のお返事。ほんとにMASAと共演してくださったのだ。もう、うれしくて、うれしくて。ボーッとして「ロング・イエロー・ロード」などスタンダードナンバーの曲を舞台の袖で聴き、ホテルへのお迎えや空港へのお見送りをさせていただいたのも、懐かしく、楽しい思い出だ。
1947年、4歳の私は母につれられ、毎週、大阪南部の淡輪から南海電車に乗って、和歌山の水軒口までピアノを習いに通っていた。東京芸大で井口基成に習ったという内田先生は、とても厳しかったけれど、バイエル、ハノン、ツェルニー、ソナチネ、ソナタまでなんとか弾けるようになった。
当時はまだ戦後まもない頃、電車に乗ると傷痍軍人が白衣に松葉杖をつき、アコーデオンを弾いて募金を求めていた。1950年、ジェーン台風の日もレッスンに通い、車窓から海岸の松並木が、ばたばたとなぎ倒されているのが見え、家に帰ると塀が全部倒れていた。嵐の日に出かけるなんて、母もまだ20代で若かったんだな。
音楽好きの母は、伯父が組み立ててくれた5球スーパーラジオで、毎日、クラシックを聴いていた。休日は大阪の難波や千日前の映画館へ洋画を見にいく。連れられていった私も、当時のハリウッドスターたちの顔や名前は、今でもよく覚えている。
私の娘は小学生の頃、近くのお豆腐屋さんの娘さんが園田高広のお弟子さんだったとかで、ベルリンにも留学。お豆腐屋さんの2階で厳しくピアノレッスンを受けた。私よりずっと音感がいい娘は絶対音感もあるほどだったけど、今は小2の孫のピアノのお稽古に、厳しく叱ってばかり。孫も大変だなあ。
「人生とは時間をかけて私を愛する旅」というフジコ・ヘミング。「おしまいのない仕事をしているのは幸福」という秋吉敏子。
すごいなあ。長い時間をかけて自分を愛し、努力を重ねて自分を磨き、限りなく「自立」に向かっていく彼女たち。私にはとても真似はできないけれど、同じ時代の、ちょっと先を歩く女性たちが確かにそこにいることを、ほんとに心強く、うれしいと思う。
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