【転載】 
NPO法人移住者と連帯する全国ネットワーク理事
大阪大学大学院人間科学研究科准教授
髙谷幸さんの2018年12月5日
参議院法務委員会における参考人陳述を高谷さんの許可を得て転載させていただきます。


 本日はこのような意見を述べさせていただく貴重な機会をいただき、誠にありがとうございます。一方で、非常に論点の多いこの法案があまりにも短い時間でしか審議されないこと、議論を避けるかの様な一部の国会議員の方々の発言は残念に感じました。この法案は、選挙権のない外国籍の方々の生活に大きな影響を与える法律です。だからこそより公正で慎重な審議をお願いしたいと考えています。

 法案審議の中で外国人技能実習制度の問題点が注目され、野党の議員の方々の書き写しによって法務省の調査の間違い、技能実習生がおかれた深刻な状況が改めて明らかにされました。ご尽力いただいた議員の皆様に御礼申し上げます。

 私自身、十数年前になりますが、大学院生の頃に在日外国人のテーマに関心を持ち、移住者と連帯する全国ネットワークの前身の団体にインターンとして関わり始めました。ちょうどその年、当時はまだ研修・技能実習制度の時代でしたが、岐阜県の縫製業で働く研修生の大規模な労働問題が明らかになるという事件がありました。移住連の関係団体に相談があり救援活動が行われました。「時給300円の労働者」という言葉が作られ、研修・技能実習制度が社会問題として認識されるきっかけになった事件でした。それから二度の法制度改正が行われましたが、やはり根本的な問題は変わっていないと認識しています。

 過去四半世紀にわたり、「技能実習制度」という本来は趣旨も目的も異なる制度を日本の人手不足を解消するために使いつつ「単純労働者は受け入れない」との建前を維持してきたことから考えると、今回、「外国人労働者」の受け入れを政府が提案したことには、政府もやっとこの問題に向き合う姿勢を示したのだとの思いを抱いています。これまで海外の研究者と話をすると、日本はなぜ移民政策をとらないのか、正面から受け入れないのかと質問されてきました。日本では欧米の状況を見て移民受け入れが「リスク」になると捉えられがちですが、彼らから見るとこれだけ人口が減少しているにもかかわらず頑なに「移民」を拒否しようとしている日本の姿勢の方が奇異に映るというか「リスク」に見えるのですね。外から見れば、日本はそうした状況なのだ、というのは認識しておいてもいいのかなと思います。

 しかし問題は今回の受け入れ方です。結局、この在留資格「特定技能」の創設による受け入れは、技能実習制度による受け入れと酷似しており、しかも技能実習から相当程度の移行が見込まれるということで、技能実習で生じている問題がより拡大してしまうのではないかと大変危惧をしています。すでに国会でも様々な指摘がされていますが、労働条件、ブローカー、登録支援機関の問題など多数の課題があります。また統合あるいは包摂政策という、本来は外国人の生活をサポートする制度の確立が急務であるにもかかわらず、そちらの議論が国会ではほとんど議論されていないということにも問題を感じています。さらに、現在の入管局が出入国在留管理庁として、在日外国人にかかわる課題の司令塔的役割を果たすという制度設計も問題だと感じています。というのも、労働問題、あるいは子どもの教育というような問題は、出入国在留管理庁がその役割を担うことができないからです。結果として、こうした政策がより一層不十分になってしまうおそれがあります。
 しかし本日は時間も限られていますので、もう少し大枠の、日本の外国人労働者の受け入れ方、あるいは「移民政策ではない」という主張に現れている姿勢が、可能な限り定住・永住に繋がらないようにするものであること、それがどのような不合理をもたらしてきたのかについて考えを述べさせていただきたいと考えます。今回、「特定技能1号」には家族帯同が認められていません。当初は「特定技能2号」に道が拓け、これまでの政府の姿勢の転換のようにも思いましが、2号の創設を求める声が萎み、現時点では、「介護」をくわえても非常に少数の業種だけが定住・永住につながる形になるとされています。また1号で働く期間は、永住許可要件の就労資格要件にも該当しないとの答弁もなされています。
 
 ここには「定住・永住を可能な限り阻止する」という日本政府の姿勢が端的に表れています。それは、「技能実習制度」を維持してきた姿勢と同じです。しかしこの「定住・永住」をできる限り阻止するという姿勢は何をもたらしてきたでしょうか。

 まず、その帰結の一つが、外国人労働者の生活面の様々な形での介入と権利の制限です。手元の資料にも入れさせていただきましたが、先日、実習生は恋愛も妊娠も禁止され、妊娠がわかった場合は帰国を迫られているという報道がありました。こうした措置は認められるものではないというのが政府の見解のようですが、このような例は後を絶ちません。私も技能実習生が多く働いている地域でフィールド調査をした経験がありますが、そこでも同様の例を聞きました。

 なぜこのようなことが起きるのでしょうか。それは、技能実習制度は、技能実習生を可能な限り「労働力」としてしか存在しないようにするものだからです。人間である技能実習生を労働力としてしか存在しないようにするには何が必要か。それは彼・彼女らに家族との生活や恋愛、妊娠という「労働」を離れた「生活」の部分を制限するしかありません。つまりこの制度を維持するには、「労働力」が「人間」として暮らす局面を最大限制限するほかないのです。

 私の考えでは、「定住」の阻止もこの延長上にあります。というのも「定住」あるいは「永住」とは、労働市場から離れて生きられる局面が増えることを意味するからです。「定住・永住」とは、単に日本に長く住めるということだけを意味するのではありません。外国人労働者が労働市場を離れても生きていける場面が増えることを意味するのです。例えば、家族を連れて子どもを生み、育てることができるというのは、労働市場から出て生きる権利を認めるということです。逆に言えば、「定住・永住」を認めないということは、労働市場を離れて生きる権利は極力認めないということです。

 そしてこれこそが、日本がこれまでも外国人労働者にできる限り制限しようとしてきた権利です。その背景には、「定住」を認めると教育などに「コスト」がかかり、また「社会問題」も引き起こされるという認識があります。当初は日系人が増えましたが、2000年代半ば以降は、定住させずに済む「外国人技能実習制度」の方が使われるようになりました。

 しかし今の状況はどうでしょうか。むしろ「定住」を認めない、労働力が「人間」として生きることを制約しようとすることこそが、さまざまな人権侵害を引き起こしています。つまり技能実習生の人権問題が教えるのは、「定住」を認めないことこそが「社会問題」を引き起こしているという事実です。

 同時に、この発想は、教育や出産・子育てを「コスト」としてみる発想に根ざしています。私はこの発想は、外国人の問題に限らず、出産や子育て、教育に十分な公的支援がなされていないという日本社会全体の問題と地続きであるように感じています。その意味では、外国人技能実習制度、そして今回の「特定技能1号」の創設は、人が生まれ、育つことを大事にしないこの国の姿勢が象徴的に現れているように考えています。そうした社会で、誰が安心して幸せに暮らすことができるでしょうか。家族帯同が認められず、永住許可要件の就労資格にも該当しない、失業しても在留資格が切れてしまえば帰国させてしまえるような制度、言い換えれば「労働力」としてのみ存在が許されるというような制度は許されてはなりません。技能実習制度は廃止すべきですし、「特定技能1号」の家族帯同要件は見直すべきです。

 また、「定住」を認めないという問題が引き起こすのは、外国人労働者の人権侵害に限りません。この姿勢は、仕事を通じて熟練をしていくという、従来は日本の製造業が得意にしてきたはずの人の育て方と矛盾します。つまり、技術を身につけたと思ったら帰国しかないという不合理です。もちろん技能実習からの移行を想定している「特定技能」の創設は、こうした不合理を一定程度解消することを目指したものと言えます。しかし本当に、これは不合理の解消になるのでしょうか。私にはそうは思えません。現時点での推計では、多くの場合、技能実習と「特定技能1号」だけで帰国してしまうことになります。そうすると、最大10年間働き、かなり熟練した人が帰国してしまい、また新たな外国人労働者を受け入れ、一から育てあげなければいけないという、より一層不合理な制度になります。こうして日本では、ますます熟練した労働者が育たず、技術の継承もできないことになってしまうでしょう。

 さらに、このような定住を阻止された外国人労働者は、地域にとってどのような存在か考えてみましょう。日系人や技能実習生など多様な外国人が暮らす自治体の方にお話を伺ったことがあります。そこでは、技能実習生は、日系人以上に見えない存在だと言われます。また地場産業で技能実習生を受け入れている地域で伺った話からは、技能実習生を受け入れている企業の方以外の住民にとって、技能実習生とは接点が少なく、つながりを築くことが難しいことがわかりました。そうした地域にとって、技能実習生はよくわからない、見えない存在になりがちです。そこに一定の人数で存在しているにもかかわらず、名前のついた存在としては認識できず、実質的な関係性もない、いわば集合としての「他者」です。そして数年ごとに彼・彼女らは入れ替わります。人口減少の中、技能実習生がいなくては地場産業が成り立たなくになっている地域はたくさんあります。しかしそうした地場産業の貴重な支え手が、地域生活の中では顔が見えない「他者」なのです。地域にとって、これほど難しいことはあるでしょうか。

 「定住」をできる限り阻もうとするのが日本の「外国人労働者」に対する一貫した姿勢であること、その背景には生活を「コスト」として捉える発想があること、一方で「定住」を認めないことが企業や地域にとっていかに不合理であるかをお話ししてきました。

 しかし、こうした中で、いわば例外的に地域で定住してきたのが、日本人と国際結婚した方々や日系人です。定住した外国人に対する政策はほとんどないと言って過言ではなく、生活のための基本的なインフラが整えられていません。ただそうした制限の中でも、地域社会を支え、活躍をしている方がいます。配布資料にも関係資料を入れていますが、岡山県総社市は、そうした定住した外国人への積極的なサポートを行ってきた自治体の一つです。自動車産業が盛んで、もともと日系人が集住していましたが、リーマンショックで大量解雇に直面しました。自治体が相談窓口を作りそこで雇った外国人がつなぎ役になることで、コミュニティと自治体の連携がうまくいくようになりました。市も外国人のコミュニティ作りを支え、地元のNPOもその連携を支えました。今や自治体、外国人コミュニティ、NPOが連携して地域づくりをともに行っています。

 西日本大豪雨の際にも、外国人コミュニティのメンバーが、地域のお年寄りの家の泥かきや避難所などでのボランティアを行いました。外国人は、地域社会の構成員、担い手として生活しているのです。それは今私が暮らしている大阪でも大いに実感してきたことです。社会に貢献をしたいと考えている外国人は少なくありません。しかし日本社会は、彼・彼女らが貢献できる場、活躍できる土台を作ってきたでしょうか。今地域で中心的な役割を担っているのは、すでに20年、30年、その地で暮らしているという方々が多いです。皆、多大な努力をして、生きる場、力を発揮できる空間を築いてきました。さまざまなサポートがあれば、もっと多くの人が安心して自分らしく生き、地域の担い手としても活躍できるのではないでしょうか。

 国会審議で、「特定技能」で転職の自由を認めたら、賃金の高い都市部に移ってしまうのではないか、という質問があり、衆議院の修正でも人材が不足している地域の状況に配慮し、都市部等に過度に集中しないよう必要な措置を講じるとの規定を設けることが盛り込まれました。もし外国人労働者を「労働力」としてみれば、経済的利害のみを考慮してより賃金の高い場所へ移動する、という発想になるでしょう。もちろんそれは、労働者としての権利で、健全に市場を機能させるという意味でも否定されるべきことではありません。

 しかし同時に、人は経済的利害だけで生きている訳ではないことも確かです。暮らしてきた地域で家を購入し、子どもを育て、老いていく。そうした「人間」としての「生活」をできることこそが、地域に定住する契機になるのではないでしょうか。「人間」としての「生活」を制限し、「労働力」としてしか生きられないような制度にしておきながら、「労働者」としての権利まで否定するのは認められません。地域に定住してほしいならば、「定住」の権利を認め、その地域で「人間」として暮らすことができるよう制度設計する必要があります。

 私たちは何から目を背けようとしているのでしょうか。何を恐れているのでしょうか。
 外国人労働者・移民、外国にルーツをもつ人びとは、すでにここにおり、ともに社会を支えています。彼・彼女らは「人間」としてそれぞれの地域、この日本で暮らしています。

 統合政策がない中、彼・彼女らの権利は制限され、差別による尊厳の毀損、格差・貧困による潜在能力の発揮の困難という状況におかれがちです。彼・彼女らが、「人間」として暮らせるための権利と尊厳を保障しなくてはなりません。外国人住民基本法、差別禁止法など多文化共生社会のインフラが必要です。外国人の人権の保障は在留制度の枠内で与えられるにすぎないという、難民条約や国際人権規約を締結する前に出された最高裁判決の見直しも必要です。こうした時代錯誤的な考えを変えられるのは政治の力だけです。

 一方で、こうした状況の中でも、地域社会で積極的な働きをしている方も少なくありません。私は、共生社会のインフラ、政策のサポート、安心して生活できる場や活躍できる空間があれば、より多くの方が自分らしく生き、また潜在能力を発揮できると考えています。多文化共生社会の土台づくりに向け、十分な審議をお願いする次第です。以上で、私からの意見陳述を終わります。ご静聴ありがとうございました。