「庭の白い馬酔木が、なだれのように咲いています」と春を知らせる書き出しの、思いがけない手紙が届いた。卒寿を超え、92歳になられた箕面忠魂碑訴訟の原告・古川佳子さんからだった。
昨年12月20日付、WANにアップされた私のエッセイ「よき人々との出会い」(旅は道草・107)を、婦人民主クラブ員の友人が古川さんにコピーして送られ、それを読まれた古川さんが、お手紙をしたためてくださったのだ。
まあ、なんてうれしいこと。同じクラブ員として何度もお目にかかってはいたけれど、訴訟のお手伝いもできず、遠くから応援していただけの私。『母の憶い、大待宵草』(発行・白澤社、発売・現代書館、2018年)のご本のことを書いただけなんだけど、とっても喜んでくださった。
そしてお手紙に一冊の本が添えられていた。今年1月15日、91歳で亡くなられた未来社、影書房の松本昌次さんの最後の書『いま、言わねば 戦後編集者として』(一葉社 2019・3・15)。同時代の戦後文学者や思想家の伴走者として生きた「松本昌次さんを語る会」が、この4月6日、東京都文京区民センターで開かれたという。
すぐにお返事を書く。読んでいただきたい文書を少々添え、先日、大阪市立美術館の「フェルメール展」で求めた「青衣の女」の絵はがきを一葉、同封する。そうしたらしばらくたって再び古川さんから、箕面忠魂碑訴訟の主任弁護士として活躍した加島宏主宰の冊子「反天皇制市民1700」が送られてきた。加島宏さんは大手前高校の1年先輩、女の子たちの憧れの君でもあった。その中に「2019年代替わり儀式の法的諸問題――先の即位礼・大嘗祭違憲訴訟の経験を踏まえて」の講演録が載っていた。
「天皇が代わると元号が変わる。元号は天皇制と一体。元号を使うのを良しとしない者は、いつも反乱をせんといかん」との思いから、先の代替わり時、「即位の礼・大嘗祭違憲訴訟」を立ち上げた経緯が書かれていた。
1989年1月7日、昭和天皇死去。1990年11月12日、即位の礼。同22日~23日、大嘗祭が行なわれた。大嘗祭等に100億円もの国費を出費することに異議ありと、1990年7月29日、政教分離交流集会で「今こそノーの声を! あなたも即位の礼・大嘗祭違憲訴訟の原告に加わりませんか」と全国に呼びかけ、わずか1カ月で400通の委任状が届く。納税証明書も必要であったにもかかわらず、二次訴訟、三次訴訟と原告は増え、同年10月段階で1700人の原告が集まり、大きな訴訟となった。
当時の世相といえば、昭和天皇が亡くなる2年前、赤報隊による朝日新聞西宮支局襲撃事件が起き、その後、赤報隊は6件の襲撃、脅迫事件を起こしていた。しかも赤報隊は正体不明のまま、結局、捕まらなかったのだ。大喪の礼や即位礼・大嘗祭に声明を出したフェリス女学院大学学長宅が襲撃されるなど、不穏な空気も流れていた。彼のことを心配した高校の同級生は防弾チョッキを持参し、「しばらくこれを着ておけ」とプレゼントしてくれたとか。
1992年、大阪地裁第一審判決は、「それは自己の意見や見解と相反することに国費が支出されたり、国事行為や公的な皇室行事が行なわれたりすることに対する憤怒の情や不快感、挫折感、屈辱感といったものであって、少なくともこれらをもって損害賠償により法的保護を与えなければならない利益にあたるとすることはできない」と切って捨てた。
2年後の大阪高裁判決も結果的には敗訴。しかし、「政教分離原則違反+国民主権原理にも反する」と明確に違憲判断を下した。即位の礼についても、「宗教的要素を払拭しておらず、政教分離規定に違反するのではないかとの疑いを一概に否定できない」とした。にもかかわらず、判決主文は「請求棄却」。裁判所として「警告を発した」に留まり、「請求棄却」の理由を「本件における右奉祝要請が、天皇の即位に対する祝意を表することを控訴人らに事実上強制したとまでは評価できないから、控訴人らの思想、表現の自由の侵害に当たるとまではいえない」とした。さらに原告が掲げた「被侵害利益」の一つ、「納税者基本権」については判断しないまま。その後も各地で繰り広げられた違憲訴訟は、2005年、東京での裁判が最高裁判決で退けられ、裁判は終了した。
さて今回の代替わり儀式への動きは? 昨年12月10日、市民団体「即位・大嘗祭違憲訴訟の会」の241人が提訴したが、2月5日、東京地裁は一度も弁論を開かないまま、支出差止訴訟を却下。2月25日、1人1万円の損害賠償を求めた訴訟の第1回口頭弁論で、原告の日本基督教団牧師・堀江有里さんは、「天皇制への翼賛の危険」とともに「天皇制は女性への差別、人々への権利侵害」であることを訴えた。安倍政権のもと、メディアも司法にも期待できないのは誠に無念だが、4月27日、「私たちは、退位・即位とどう向き合うのか? 4・27天皇代替わりに異議あり! 関西集会」が開かれる。太田昌国さんの講演会。エルおおさかへ行かなくちゃ。
古川佳子さんのお手紙は、『いま、言わねば』の「あとがき」を引いて、「決してくじけず、あきらめず、<戦後>を直視し、考え続けて継承していこうと思います、残日はわずかですけれども」と、胸に秘めた静かな決意の言葉で結ばれていた。
久方ぶりのお手紙。やっぱり手紙はいいなあ。その人の思いが、その人の言葉で、字面から書いた人の息づかいまで伝わってくる。こんな手紙のやりとりを、ほんの数十年前まで人々は淡々と書いてきたのだ。MailやLINEやTwitterやFacebookが生まれる前は。
私も1960年代、別れた元夫に2年間に200通、ラブレターを書いたんだっけ。3日に1度は書いたことになる。返信は70通だったかな。結婚後、屋根裏部屋に紙袋にしまいこんでいたらネズミにかじられ、ボロボロになって捨ててしまったけれど。それもまあ、いいか。
娘が中国・蘇州大学に留学した1990年頃は、まだ蘇州では通信手段は手紙しかなかった。薄くて破れそうな便箋に、中国での予期せぬ出来事の数々や、留学生との愉快であたたかい友情を綴り、ホームシックになる暇もなく、1年間の留学生活のあれこれを書いてきた。当時は中国の郵便事情も悪く、1週間以上たって、ようやく届いていたけれど。
母からの手紙も手元にある。「時候の挨拶から結びの言葉まで達筆で縦書き、行間も崩さずに、きちんと書いてあったわよ」というと「そう? そんなこともあったかしらね」と、95歳になった今はもう、すっかり忘れてしまったようだ。
手紙は伝える相手と、距離と時間を置いて、思いをつなぐ手段。まどろっこしいけれど、メールより、はるかに思いが届くような気がする。それに相手の顔を思い浮かべ、優しい気持ちで書くのがいい。久しぶりに、また誰かに手紙を書いてみようかな。