中国語で「Lei wa」とは「累哇」(うんざり、ああ疲れた)という意味だとTwitterで誰かが呟いていた。「令和」なんて、うんざり、見たくも聞きたくもない、使いたくもない。時を「元号」なんかで区切るな、勝手に時間を止めないで。

 というわけで4月27日、エルおおさかへ「天皇代替わりに異議あり!関西集会」にゆく。「私たちは、退位・即位とどう向き合うのか?」(太田昌国/批評家・編集者)の講演を聴くために。大会議室は300人以上の人で溢れていた。先の代替わりから30年、久しぶりに見る聴衆の顔ぶれも、それぞれに歳を重ねていた。講演者も私と同い年の1943年生まれだ。

 太田昌国さんは語る。コロンブスのアメリカ新大陸発見(1492年)から500年が過ぎ、弱肉強食の新自由主義路線によるグローバリゼーションが、今や世界を制覇している。ロシア革命(1917年)から100年、日本の植民地統治下・朝鮮の三・一独立運動(1919年)から100年が経つ。その間、20世紀に残存した4つの王政のうち、ロシア革命によって帝政ロシア・ロマノフ王朝は滅び、中国・清王朝は辛亥革命(1911年)で倒れ、中華民国が成立。李氏朝鮮も三・一独立運動によって李朝は倒れた。ただ日本だけが唯一、革命を経ることもなく、1945年の敗戦を奇貨として、天皇は「現人神」から「象徴」に変身することにより、戦前と断絶することなく戦後を生き延びてきた。

 『反天皇制運動 Alert』「太田昌国の みたび夢は夜ひらく」107(2019年5月4日)には、こう書かれている。「ここ2カ月ほどかけて私たちが見せつけられている「退位・即位」にかかわるいくつもの行事では、歴史的な実在性が疑わしい人物が登場したり、神話性に彩られた振る舞いが堂々と罷り通ったりしている。それは最終的には明確な神道儀式に他ならない、今秋11月に予定されている大嘗祭へと繋がっていくのである」「日本の天皇制にまつわる神話性と宗教性は、明らかに人々にその力を及ぼす統治形態と密接なかかわりをもつ。その虚構にいっそう深く拘束され、支配されてゆく人びとの群れを見るばかりである」と記し、「リベラル左派と称される知識人さえも、批評精神を喪失し、天皇制の「呪縛の構造」にからめ捕られていくさまを目のあたりにする」と。まさにそのとおりの現象が、この10連休に、いやというほど見せつけられた。もう、うんざり、だ。

 体制批判を嫌う若者たち、支配秩序を肯定し、同調主義圧力へ批判の声が上がらないのはなぜか? 体制に抗い、討論をつくりだす言葉を見いだす方途とは?

 太田昌国著『極私的60年代追憶 精神のリレーのために』(インパクト出版・2014年)を読む。1960年代、左翼は未来社会へのイメージを提起したかに見えた。しかしその後の左翼陣営は、結果として手ひどい失敗を世界中につくりあげてしまった。そして主権者自身、「命を革(あらた)める」のではなく、やむなく「今のままでいい」と、現状肯定への道を選んできたのではないかと。

 じゃあ、どんな選択がある? 著者は、正義の声を、ただ押しつけるのでなく、自らへの問いを問い返しつつ、あるいは自分とは異なる意見をもつ人々の声にも耳を傾け、じっくりと対話を求めていく姿勢を、一人ひとりがもち続けていくことではないか、と問いかける。

 その試みの一つ、レイバーネット日本「あるくラジオ」第4回放送(2019年3月29日)「いまの日本、いまの世界――太田昌国さんに聞く」をYouTubeで聴いた。講演のお話と重ねあわせて聴きながら、インタビューの合間に流れる2曲、沢田研二が歌う、Boris Vianの「脱走兵」と、武満徹ギターのための12の歌の「The International」が、実に、いい。

  糖葫蘆(タンフールー)を売る少女

 そしてもう一つ、「カメラが写した80年前の中国――京都大学人文科学研究所所蔵華北交通写真」展へ、最終日の4月14日、京都大学総合資料館へ出かけた。

 写真展実行委員長の京都大学東南アジア地域研究所の貴志俊彦氏によると、戦前(1939年~45年)、中国北部・西北部一帯の交通網を管轄していた日中合弁の華北交通によるストック・フォトが3万5千点あまり。それらが戦後、京都大学に委託され、京大人文研に保管されていたのだという。保存のいい写真の数々が並ぶ。写真撮影「可」というので何点かスマホで撮らせてもらった。

 日本統治下時代の中国。軍の検閲印のある写真もあったが、日中戦争下の戦闘状況はほとんどなく、交通インフラや資源、人々の暮らしぶりが、いきいきと写されていた。「糖葫蘆(タンフールー)」、果物に飴を絡めたお菓子を売る少女、胡同(フートン)の四合院の中庭で洗濯物を干す日本人女性など。

      四合院の庭

 1943年、北京・王府井近くの東単で生まれた私。母も、こんな暮らしをしていたのかな。父は日中合弁会社の農業技師だった。母の大病で敗戦前、母におぶわれ、満鉄に揺られて無事、日本へ帰国したのだが。1990年、母が描いた地図を片手に北京を訪ねた。胡同の面影が残るあたりをあちこち歩いてみたが、生まれた家が、今もそこにあるはずもなく。

 あれから70数年が過ぎた。中国をはじめ世界は急激に変わった。だが日本は? 戦前と地続きの政治のありようは少しも変わらない。過去の戦争犯罪と海外植民地への罪責も償わないままに。蝦夷地占領(1869年)、琉球処分(1879年)に始まる、今も継続する「未決」の植民地支配をそのままにして、またもや戦前の復活を目論む現政権を、何としてでも代えなければ。

      御衣黄桜


 このところ新聞もテレビも、ニュースも見たくない。望まぬ10連休をどうやって過ごそうかと思案して、小3の孫娘をつれて宇治や北比良の山へ野草摘みに出かけた。カラスノエンドウやシロツメクサ、セリやノカンゾウを摘み、「おいしい!」と孫はモグモグ、口に運ぶ。摘んだヨモギでつくったヨモギ餅も、おいしくいただいた。

 この春は桜の季節を長く楽しめた。二条城や植物園へ母と叔母を車椅子で連れていき、孫は満開の桜の下で写生に余念がない。わけても近くの御所・出水の小川にある「御衣黄桜(ギョイコウザクラ)」は圧巻。薄緑色の桜が見事に咲いていた。その2日後に、もう一度見たいと出かけてみたら、アッという間に八重の花びらは散ってしまっていた。

 「時」の移ろいの、余りの速さに驚く。沢田研二の歌のように「時の過ぎゆくままに、この身をまかせ」ということか。過ぎゆく「時」の、その向こうに、あるかなきかの「希望」が、必ずやあると信じつつ、長い、長い10連休を、ようやく終えた。ほんとにもう、累哇(Lei wa)、「ああ、疲れた」だわ。