書名 百まで生きる覚悟――超長寿時代の「身じまい」の作法
著者 春日キスヨ
発行日 2018年11月14日
版元 光文社(光文社新書)
定価 886円+税
◎春日キスヨ様 ←―― 樋口恵子
ご高著ありがとうございました。「ありがとう」には2つの意味があり、1つはご労作を頂戴したこと、もう1つはその内容がまさに時宜を得ていて、とくに今ほとんど初代として「人生100年」社会を歩みつつある私自身の世代(80代、昭和1ケタ生まれ)に対して、今後の生き方に大きな示唆を与えてくださったことです。
ここ数年「なんだかヘンだ」と思いながら五里霧中を生きてきた私自身にとって、人生における自分の立ち位置を明確にしてくれたのが春日さんのこのご著書でした。
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この本「百歳まで生きる覚悟」は、このところ日本で社会を語り、人生を語るときに決まり文句になった「人生百年」に正面から取り組んでいます。主役は中高年。つまり「人生百年」なんてもともと想像もしなかった人々。気がつけば70代80代の老境にあり、さらに子どもさえ老いに手が届く。子どもたちは少子化のトップバッターとして生まれ育ち、それは親の側の責任。しかしその子たちがおそらく日本の歴史始まって以来の非婚化の道を歩んでいるのは、親の側も大誤算だったかもしれません。今後は血縁、婚姻による家族の数が一代で激減するでしょう。私はファミレス社会(family-less = 家族が急激に減少する社会)と呼んでおりますが。
ご著書の中で春日さんご指摘のとおりこれから長生きする親たちはかなりの比率で「逆縁」に見舞われるでしょう。老々親子逆縁社会。1人しか子を持たなかった私が最も恐れながら、最もあり得る未来です。
こうした「人生100年」という新時代のもたらす風景を、春日さんはいつもながらの詳細で綿密な聞き取り調査・取材をもとに、今、百まで生きる「現実」とその「覚悟」を示してくださいました。同じ100歳を生きると言っても、大正生まれ、昭和生まれ、地域差なども克明に示してくださいました。恐ろしい事実に身をすくめる一方、現に100歳を生きる実在の方々ののびやかな姿に、希望と勇気が湧いてきたことも事実です。
本書は、人生100年社会の正確な見取り図であるとともに、「百年の旅」を歩む人々の勇気の火種となり、絶好のガイドブックである、と申し上げたいと思います。
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ところで、以上は本書全体から何が得られるかの概観です。私が最も共感したのは第5章「ヨロヨロ期の超え方」、「ドタリ期への備え方」 第6章「今、何が求められているのか」 終章「長寿時代を生きる『身じまい』のすすめ」に到る後半の部分でした。春日さんは私より11歳年下の団塊世代、まだまだお元気です。よく早く気がつかれた、と思います。私はこの数年、老いの人生を一見今までと変わりなく進みながら「何だかヘンだ」と違和感を感じつつ生きてきました。「きのう」のように「きょう」がないのです。どこかで気持ちの張りと体の力が抜けていきます。どこかに痛みや不自由が一日刻みで増えていきます。自慢の視覚聴覚にもついに能力低下の兆候が表れてきました。クスリのタブレットが一度で破れなかったり、ペットボトルのキャップが簡単にねじ切れないことが多くなりました。階段の上りで息が切れ、下りでは膝と腰がよろけます。
そもそも私は柄にもなく調理が好きでした。共働きの毎日に、食卓の準備を苦にしたことがありませんでした。私自身も家族も、その点わりといい思いができました。その料理にちっとも意欲がわかなくなりました。そもそもおなかが空かないのです。70代前半ぐらいまで朝の目ざめののちそれほど間をおかず迫ってきた幸せな空腹感。あれが食事作りの原動力だったことをあらためて実感しました。今や一食ぐらい抜いたって何ともないのです。夕食抜きで、パンと牛乳でも流し込めば、それで十分眠れるのです。私はその原因を82歳で大決心して築45年の家屋の建て替え引っ越しをした疲れのせいだと思っていました。
そのうちに歩けばヨロヨロ、息切れで立ち止まる、という状態になり、大病院で検査したところ「輸血が必要なほどの大貧血」「消化器の進行ガンの恐れあり」ということで、生まれて初めて胃カメラを飲んだり大騒ぎ。その間私はとっくに「中流型栄養失調症」と自分で診断をつけていました。その診断が正しかったらしく、少し気力を振るってよい食生活を取り戻したら貧血も治ってしまいました。
この体験を『明日の友』(婦人之友社)の連載で「80歳は調理定年か」というエッセイに書いたら、思いがけないほどの反響で、いまだに同年輩の元主婦、高齢者の間で話題になっています。ムリなく、しかししっかり食べる工夫をしよう、という発想で新たな食生活への対応として語られているので結構なことだと思っています。
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もう1つ、やはり80代前半の経験です。私の少女時代を過ごした自治体で高齢者の健康祭りがあって、講演者に私を招いてくれました。この機会に久しぶりに集まろうと、世話役が場所を用意してくれたのですが、声をかけた同級生の半分も出席の返事がない。
理由は自分の心身の不具合、胃がんの手術間もない元スポーツ選手も。半分ぐらいは夫の心身の不具合。「その日はパパの病院行きの日だから」来られない人あり、「その日はパパのデイサービスがない日だから外へ出られない」人あり。「パパが病気で車で送ってくれる人がいない」という例も。80代以上ともなるとさすがに「孫の世話」という理由はありません。子どもと別居がほとんどですが、夫と死別した場合、娘との同居話が進んでいる人もチラホラ。有料老人ホーム入居者もチラホラ。
結果としてクラス会は「たまのことだから」「これが最後かもしれない」とみんなが協力してくれて思いがけない人数が集まりましたが、80代前半で意外なほどヨロヨロしている人(自分か配偶者)が多いのにびっくりしました。それを先刻ご承知だったのはむしろ行政でしょう。このごろ「健康寿命の延伸」は最大の政策的テーマで平均寿命と比べると男性は9年、女性は13年も短いそうですから。
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私には春日さんのおっしゃる「ピンピンコロリ願望」はほとんどありません。いえ、あるけれど不可能だと思っている、というべきでしょう。それはこの「健康寿命」と「平均寿命」との差男9年女13年をみれば明白です。にもかかわらずこの間をどうすればよいか、どう生きるか、全くイメージがなかったのです!
男女とも約10年という時間は「老後」の人生の多くを占めます。その期間の政策がない、とおっしゃる春日さんのことばはまさに正論です。介護保険のデイサービス、医療保険のリハビリも必要不可欠ですが、ヨロヨロしながらも日常生活、衣食住の必要が満たされ、外出や買い物ができ、社会の中で生きる実感の持てる社会がある。そして一定程度の認知症までは支えることのできる行政、金融手続きの安全な保障、そんな地域で老いたいと思います。施設もいわゆる自宅も含めて、自分が選び取り、ここは自分が主人公と言える心理的物理的な空間、自分の個室があるところで人生を終われたらよいと思います。
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今、ヨロヨロ期のまさに適齢期真っただ中を生きて、私はこのヨロヨロ期をはっきり見える化し、もちろん健康寿命の延伸は望ましいことですがヨロヨロしながらも社会の一員として、個人の人生の延長線で生きられる社会を心から望みます。人生100年社会の中にこの時期をしっかり位置づけ、必要なサービス、支え合いの仕組みを創り出す。
私たちNPO高齢社会をよくする女性の会としても1つの運動として取り組むことをみんなで討議したいと思います。この時期の発見者である春日キスヨさんにぜひご指導をいただきたいと存じます。春日さんがおっしゃる「病い、老いとともに生きる暮らしの街」は個人的にも社会的にも、いま老いを生きる人々が発明し、提案する時期だと思いますから。本当にいろいろなことを考えさせていただきありがとうございました。
◎樋口恵子様 ←―― 春日キスヨ
その後いかがお過ごしでしょうか。体調の回復具合、とりわけ「消化器の進行ガンの恐れ」は消えたのでしょうか。病前と病後の体力差が大きいのが長寿期の特徴と言われますが、樋口さんの体調はどうなのか。それが一番気になり案じております。(*)
それにしても病後というのに私の著書に対し丁寧で的確な書評、本当にありがとうございました。「ヨロヨロ期」の発見者という身に余る評価のみならず、長寿期真っただ中の樋口さんが、私が一番主張したかった点を、「健康寿命の延伸は望ましいことですがヨロヨロしながらも社会の一員として、個人の人生の延長線で生きられる社会を心から望み」「人生100年社会の中にこの時期をしっかり位置づけ、必要なサービス、支え合いの仕組みを創り出す」と簡潔に示し、そうした取り組みをNPO高齢社会をよくする女性の会の運動のひとつとしても考えたいと言っていただいたことは大変うれしく、これからの大きな励ましとなりました。それに樋口さんの「“きのう”のように“きょう”がない」のが「ヨロヨロ期」という自己体験に基づく実感、これは今後私が「ヨロヨロ期」にある人の話を聞いていくときの大事な指標になると思いました。
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そもそも本書のテーマである超長寿社会日本における「ヨロヨロ期」高齢者の意識や生活問題、制度的空白問題に私が取り組み始めたのには二つのきっかけがありました。
一つは著書にも書きましたように、介護保険開始後の2002年以降、私は高齢者虐待防止支援現場の支援者とつきあう形で研究をしてきました。そのなかで近年、家族や地域つながりが薄い認知症高齢者や自己決定能力が弱いひとり暮らし高齢者が増え、「余力がある高齢者は元気なうちから自分で出来る備えをしておいて欲しい」という支援者の言葉を頻回に聞くようになり、「高齢者は本当になんの備えもしていないのだろうか」と疑問を持ったことです。
いま一つは大学を辞した2012年以降、「高齢社会をよくする女性の会広島」に深く関わり、シングル高齢女性や夫はいるが頼るべき身内がない高齢女性を中心とした「おひとり様カフェ」を開き、その中でアクティブシニアと言われる高齢女性たちの暮らしの悩みに深くつきあうようになったことがあります。
つまり、「病や障害を抱えた人をどう支えるか」が主題の介護問題から、「支えが必要になった時、あなたはどこで誰に支えて貰うつもりか」「いまどんな暮らしをし、長寿期に向けての備えをしているか?」という高齢者の生活問題に私の関心がシフトしていったのです。
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そうした経緯で高齢者の話を聞き始めたのですが、それは私にとって驚きの連続でした。「人とは加齢に伴い老い衰えゆく存在」。だから、誰でもその時期が来ることを自覚し、何らかの備えをしているだろうという私の思い込みが覆されていったのです。
元気な間は「自分は年だ」という自覚が薄い高齢者が多い事実。
倒れたときの身の振り方についても「なりゆき任せ」「誰かが何とかしてくれるだろう」と、「丸投げ的」楽観的思考の人が多い事実。
「ピンピン・コロリ」で死にたい願望が強く、国が言う健康長寿を伸ばす運動や食事摂取をしていれば、「ピンピン・コロリで死ねる」と本気で信じている人が少なくない事実。
なかでも長寿者自身が持つ年齢感覚と介護業界の人が持つ高齢者の年齢感覚のずれは大きなものでした。そしてそうした年齢感覚の違いを樋口さんのこの書評のなかにも見出し、私は思わず苦笑してしまいました。樋口さんはクラス会に集まった人が「80代前半で意外なほどヨロヨロしている人が多い(自分か配偶者)」と書かれていますね。これは介護業界の人なら「80代でヨロヨロは当然」と言うでしょう。私も介護問題の聞き取りをするときはそうした年齢感覚で高齢者の話を聞いてました。しかし、長寿期高齢者でも自分の元気が続いている限り、「自分は年だと思わない」「ヨロヨロ期ではない」という人が多かったのです。
だから、元気であればあるほど、60代、70代の生活感覚の延長線上で何の備えもないまま、倒れた後の生活リスクが高まっていく。
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例えば話を聞いた中で、次のような方がおられました。
夫は82歳、自分は78歳、頼るべき子どもや身内もいないが在宅で可能な限り暮らし続けたいという方です。1戸建ての持ち家住まいで、2階が居室で1階が物置状態。で、自慢げに話されたのは、2階が居室だから階段の上り下りで一日換算すると結構な運動量になる。だから、「健康寿命」を伸ばすために2階を居室とする暮らしを続けるつもりと言われるのです。
この話を聞いた時私は即座に次のアドバイスをしました。
「夫が82歳、あなたが78歳でどちらかが明日倒れてもおかしくない年齢です。で、夫が2階で倒れたら、あなたは階下まで夫を下ろし病院まで連れていけますか。それに在宅生活を可能な限り続けたいのなら、夫の入院中にあなた一人で物置状態の1階を片づけ、病院通いもあり、大変な負担になります。運動はスポーツジムか散歩で行う方向で考え、早々に居室を2階から1階に移す取り組みをなさったらどうでしょうか」と。
この方の場合、長寿期が目前という自覚、倒れると体力も自己決定能力も失われるという自覚、親族支援が当てにできないなかでひとりで危機を乗り切らねばならない家族状況という自覚が欠如したまま、60~70代前半期の高齢者の生活感覚のままであることに大きな危機感を私は持ったのでした。
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しかし、この女性は70代で年齢的にも余裕があり、まだましと言える例でした。話を聞いた方には90代でも年齢感覚がまだ若い頃のままにとどまっている方が結構おられたのです。
膝の痛みがひどく、物忘れが増えたので今後の暮らしが心配だが、県外に住む娘を頼るつもりはないという高層アパートでひとり暮らしをする96歳の女性の話が典型的な例でした。
この方は80歳になるまで山登りを楽しみ、96歳の現在もカープの応援に球場まで行くというアクティブ長寿者です。にもかかわらず、自力で生活できない時期に備える知識や取り組みは非常に乏しく、地域包括支援センタ―の存在も高齢者ケア施設の種類や性格も知っておられませんでした。そして、この方が再々口にされた言葉が「これまでのんびりし過ぎましたねえ。のんびりしすぎてこの年まで来ました。これからどうしたらいいですかね」というものでした。
私はこの方の話を聞きながら、病気知らずの元気高齢者であればあるほど「年だ」という実感を持たずに年齢を重ね、長寿期になって初めて「老い衰えた自分」に直面し途方に暮れる。そしてそんな人が、長寿化が進めば進む程さらに増えるのではないか、これは大変な社会問題だと改めて思ったのです。
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しかし、こうした人たちに数多く出会ううちに私は、これはこの人たち個人の生き方の問題に帰すべき問題ではないないのではないか。個人的とも思えるこの問題は前人未踏の長寿化、家族基盤の脆弱化が同時に進行する日本社会に、家族の支えなしに長寿期を生きる文化が不在であること、さらに、危機状況に陥った時それを支えるセーフテイネットがない制度的空白状況が関わっているのではないかと考えるようになりました。
そうした目で改めて話を聞いていくと、制度面では「健康長寿」「予防」を推進しながら、家族の支えがないなかで増えていく自己決定能力を失った高齢者の人権を支える権利擁護のための制度が不十分である事実がわかってきました。
意思決定能力がある間に「任意後見人」を関係機関につながって選任したくとも、その関係機関が信頼にたるものでは必ずしもない事実も解ってきたのです。また、「地域つくり」を住民の互助で成し遂げ、地域が高齢者の見守り機能を果たすことを国は政策目標にしていますが、「受援力」が乏しいひとり暮らし高齢者や高齢夫婦の場合、地域とのつながりが薄く介護保険につながることさえ難しいしい状況である事実も解ってきました。
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こうした長寿「ヨロヨロ」期を人間らしく尊厳を持って生きるための文化的空白、制度的空白状態にある事実は、以前私が介護保険に既につながった要介護高齢者や介護家族、支援者を研究対象にしていた頃には見えていなかったものです。
こうした状況にあることを、現代日本が人類未踏の長寿社会だから仕方がないと言う人がいるかもしれません。しかし、国はこうした将来予測をしていないのでしょうか。予測してないから「予防」を重視し、「健康寿命」延伸のための運動・食事法の奨励に力を注ぐのでしょうか。現在の6,70歳代の高齢者が「予防」重視し「健康寿命」を延ばす努力をすればするほど長寿化がさらに進み、100歳まで存命の人が増えるのではないでしょうか。
その結果,「老々親子逆縁社会」になり、人生の最終ステージで生き惑う長寿者が今のままであれば、さらに増大するに違いありません。
だから、そうならないためにも長寿社会では「ヨロヨロ期」が必然であることを社会問題化し、その時期の暮らし方をめぐる新たな文化、その時期を支える制度的施策が新たに創出されるべきでだと私は考えます。
と、ここまで書いてきて思いもかけない長い文章になってしまったことに気がつきました。これでおしまいにしますが、私も今年で76歳。樋口さんと同じ長寿期に入りつつあります。そんな私にとって11歳年上の樋口さんは生き方のこれからモデルです。その樋口さんが長寿期高齢者の当事者運動を呼びかけておられる。私も元気で頑張っていこうと改めて思いました。
樋口さん、これからもおからだ大事に元気で頑張ってください。うれしい書評、本当にありがとうございました。
(*)春日さんへのお返事
ご心配かけました。ガンの疑いは全くシロで、要するに食生活が貧しいがゆえの大貧血でした。
以後、食い改めて今のところ小康を保っています。
これもヨロヨロ期の特徴で、以前のような空腹感がなく、調理が面倒で、冷蔵庫に食材はあふれているのに栄養失調。
子ども食堂は大切ですが、シルバー食堂も仲間に入れてほしいです。(樋口)