インド第二の都市、ムンバイ。住み込みの使用人として働くラトナ(ティロタマ・ショーム)は、村への里帰り中に突然、雇い主に呼びもどされた。彼女の雇い主である、建設会社の御曹司アシュヴィン(ヴィヴェーク・ゴーンバル)が、海外で結婚式を挙げてくるはずだった・・・のだが、婚約者サビナ(ラシ・マル)の浮気を知って、急きょ結婚を破談にして帰国したからだ。

アシュヴィンは、もともとアメリカでライターとして働いていたところへ、兄の死によって父親の跡継ぎをまかされ、やむなくムンバイに戻って暮らしていた。その上、親が期待する結婚を破談にしたことで、帰国した彼は悶々とした不自由な気持ちを抱え、ふさぎ込んでいた。

一方のラトナは、そんな彼を使用人として気遣いながら、いつかデザイナーになりたいという自分の夢に少しずつ近づこうと努力をする。19歳で夫を亡くした彼女は、婚家の口減らしのために、住み込みで使用人をしていた。夫の家族に仕送りをし、妹の学費も援助しながら、ラトナは女性を縛る村の因習から少しだけ離れ、都市に暮らすことでわずかな自由を手にしていた。

ある日、ラトナが「仕事の休憩時間に裁縫を習いたい」とアシュヴィンに願い出たことをきっかけにして、ふたりは徐々に、お互いに自分のことを打ち明けるようになり、距離を近づけていく。しかし、圧倒的な立場の違いが、ふたりの恋を許すはずはなかった――。

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インドでは、宗教やカースト、階級、出身地域などの共通性にもとづく「コミュニティ」が重視され、強い家族規範とともに個人の生き方を決定づけている。この映画が描く「主人と使用人の恋」は、いわばコミュニティをおびやかす大きなタブーであり、双方にとって損失をもたらす、現実ではほとんど受け入れられることのない関係だという。

本作は、そのタブーに挑戦したロヘナ・ゲラ監督にとっての、長編デビュー作である。彼女は、身分違いの恋をとおして、インドにある階級間の隔たりを社会に問いたかったのだそうだ。自身が幼少のころにナニー(住み込みで子育てをする使用人)と過ごし、自分たち家族との待遇や力関係のちがいに悩んだ経験が本作の制作につながったとインタビューで語っている(注1)。アメリカの大学で学び、同国でキャリアを重ねてきた、インドの外側に越境した経験をもつ監督だからこそ作られた作品だ。

ヒンドゥー教において、夫を失った女性は生涯、恋愛も結婚も許されない。一生、寡婦として夫の霊を弔い、亡き夫の家族に仕えることが期待され、アクセサリーや華やかな服装、化粧まで禁止される。主人公のラトナもおよそ同じ境遇にあり、アシュヴィンに「村で未亡人になったら、女性は人生終わりです」と淡々と語る。だが、同時にラトナは、アシュヴィンの元婚約者のサビナが「ここはムンバイよ/自分の生き方は自分で決める」と言いながらラトナに腕輪をくれた出来事を語り、「私は人生に目覚めたの」とほほ笑むのだ。

それでも、村の因習に背いた人間に課される制裁の重さや、それが家族やコミュニティに与えるダメージを知っているから、ラトナはムンバイにいるときだけ腕輪をつけ、使用人のまま自分を生きようとする。同じく使用人で友人のラクシュミの力を借りながら、身の丈で自分を変えていこうとする姿に、アシュヴィンとの困難の多い恋よりも、彼女の職業人としての未来のほうをむしろ応援したくなってしまった。

とはいえ映画には、ちゃんとラトナの仕事にも、このふたりの恋の結末にも、なるほどね!と思う、ほほえましいエピソードが用意されている。必見は、ふたりの息遣いまでが完璧なラストショット。それだけでも繰り返し見たくなる、温かな希望が、じわじわと胸に残る作品だ。監督はもちろんのこと、恋するふたりを演じたティロタマ・ショームとヴィヴェーク・ゴーンバル、それぞれがアメリカで演劇を学び、ユニークなキャリアを重ねてきたからこその作品とも言える。ムンバイの市場に並ぶ色鮮やかなファブリックや、高級マンションのインテリア、ラトナたちが身にまとう洋服の色合わせなども目を楽しませてくれる。公式ウエブサイトはこちら。(中村奈津子)

注1)本作の公式パンフレット「ロヘナ・ゲラ監督インタビュー」より

8月2日(金)よりBunkamuraル・シネマ、8月3日(土)より名演小劇場ほか全国順次公開

監督・脚本:ロヘナ・ゲラ
出演:ティロタマ・ショーム、ヴィヴェーク・ゴーンバル、ギータンジャリ・クルカルニー
後援:日印協会 提供:ニューセレクト
配給:アルバトロス・フィルム
2018年/インド・フランス合作/ヒンディー語・英語・マラーティー語/ビスタ/デジタル5.1ch/99分
(c)2017 Inkpot Films Private Limited,India
公式サイト:anatanonamae-movie.com