翌朝、大震災により、電気・水道・ガスのライフラインすべてが止まった。
度重なる余震に眠れないまま朝を迎えた。
私は給水情報を求め、携帯を手にとった。
すると実家から徒歩10数分の場所に給水車が来ることがわかった。
私は娘を伴い、やかんとポットを両手に持ち、徒歩でその場所へ向かった。
給水までは、1時間半ほど並んだ記憶がある。
さらに私は食料と灯油を求め、自転車で品薄のスーパーを転々とした。
そんな風に、原発事故後はいつも以上に外を駆け回ることが多かった。
TVやラジオでは「できる限り屋内退避をし、止む終えず外出した際は、すぐにシャワーをし、着ていた洋服は洗濯するか、捨ててください」とのアナウンスだった。
「水が止まっているのに、シャワーも洗濯もできない!一体どうしろというのか!」
私はぶつけどころのない苛立ちをTV画面に向けた。
そんな中、夕方になると下痢を起こすようになった。
それは関西へ避難をするまで続いたものだった。
「このままここで暮らしていいのか?」
私は寝る間を惜しみ、放射線が及ぼす健康被害についての情報を集めた。
すると、放射線の専門家の間でも安全派と危険派、双極の見解があり、また、被ばく線量と健康被害の間には、「しきい値がない」ことがわかった。
さらには、生物体、特に動物のそれは、「幼若なほど放射線に対する感受性が高い」ということもわかった。
そんな中、アメリカ国防総省は軍関係者に対し、福島第一原子力発電所事故による被ばくを避けるため、 「80キロメートル圏内からの避難」を命じた。
被ばく線量と健康被害の間に「しきい値」がなく、また、子どもは大人よりも感受性が高いのであれば、「予防原則」に則り、「放射線の影響のない場所へ避難すること」が賢明ではないのか?
とはいえ、「どこへ」「いつまで」避難すべきか?
私はその答えを得るべく、さらなる情報を求めた。
その結果、チェルノブイリ事故では、300km圏内にはホットスポットと呼ばれる高線量エリアが存在し、また、放射性物質は長期間に渡り影響することから、長いスパンでの避難が必要であることもわかった。
ちなみに、福島から300km離れた地域は、北は青森以北、西は静岡以西となる。
私は、修学旅行や社員旅行で訪れたことのある関西地区への避難を考え始めた。
福島県からの原発事故被災者は、避難指示の有無にかかわらず、「災害救助法」に則り、応急仮設住宅への避難が認められていた。
しかし、入居にあたっては、「罹災証明書」の有無により差別化が行われていた。
原発事故当初、応急仮設住宅への入居は「罹災証明書」が必須だった。
我が家の場合、住宅への直接的な被害がなかったこともあり、「罹災証明書」を得ることができなかったため、受け入れ先が見つからずにいた。
※「罹災証明書」は、地震や風水害等の災害により被災した住家等の被害の程度を市町村が証明するものであり、各種被災者支援策の判断材料として活用される。
そんな中、大阪府はいち早く「罹災証明書」なしでの受け入れを表明した。
私はさっそく大阪府へ問い合わせをすると、電話での受付は行っていないため、大阪まで申し込みにきてほしいとの回答だった。
東日本大震災後、私が居住していた福島市では、ライフラインの停止のほか、土砂崩れや道路の陥没などにより公共の交通機関も停止していた。
そのため、すぐさま避難ができず、汚染地に留まらざるを得ない状況にあり、その間、日々の生活のため外出をし、無用な被ばくを強いられなければならなかった。
2011年4月、公共交通機関の再開を聞き、大阪を目指した。
入居手続きはとてもあっさりと終わり、その足で福島に戻り、避難の準備をした。
住居の引き払い、荷物の梱包、不用品の処理、電気・ガス・水道の廃止手続き、学校への転出手続き、自治体への転出手続きなど、それらを1週間で行った。
「関西へ避難することにした」
父や家族にそのことを伝えに行くと、「関西まで避難する必要はないだろう」「県も国も避難指示してないのになぜ避難する必要があるのか?」「日々放射線量は減っているではないか」「その後の生活はどうするのか?」と、冷ややかな反応が帰ってきた。
また、「転校したくない! 友達と別れたくない! せっかく始めた吹奏楽を止めたくない!」と、娘の反応も堪えたものだった。
しかし、そうしている間にも被ばくは積算される。
子どもこそが大きなリスクを背負う確率が高いことを知った私は、「命を守るための前向きな選択」であることを丁寧に説明した。
避難先の申込から1週間後、スーツケース3個とともに再び西を目指した。
その日は大雨だった。
私たちは実家に立ち寄り、家族と夕飯を共にし、午後8時、父の運転で最寄駅へ。
別れ際、「関西のほうがこどもにはいい」とつぶやいた父の言葉に、抑えていた感情が溢れ出した。
「なぜわたしたちは福島を逃げるように去らなければならないのか?みんなは元気に過ごせるのか?」
車窓を流れていく見慣れた景色・・・。
声を押し殺し、号泣したことは忘れられない。

5月のコンクールに向けてフルートを練習していた娘

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