ふぇみん泊まってシンポ in 岡山

 7月13日・14日、待ちに待った「ふぇみん泊まってシンポin岡山」にいってきた。記念講演は、WANのお仲間・岡野八代さん。「改憲とジェンダー――怒りの生まれる社会を変えよう」と、9条(誰も犠牲にしない)と24条(あらゆる個人の尊厳)が、なぜつながるのかを語る。

 現行憲法と自民党「改正」憲法案の比較を見る。第二章 戦争放棄。第9条1 国権の活動たる戦争と、武力による威喝又は武力行使は、国際紛争を解決する手段としては「永久にこれを放棄する」とあるが、「改正」案は、第二章 安全保障。第9条(平和主義)とうたい、1 「国際紛争を解決する手段としては用いない」とグッとトーンを下げる。しかも2(国防軍)までも規定して。第24条1 「婚姻は、両性の合意のみに基づいて」を、「改正」案では第24条(家族、婚姻等に関する基本原則)1 「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は互いに助け合わなければならない」とし、「合意のみ」を削除。さらに第13条で、すべての国民は、「個人として尊重される」を、「改正」案では、第13条(人としての尊重等)として、全て国民は「人として尊重される」と、「個人」を「人」に変えてしまっているのだ。

 「戦争する国づくりを目論む人々は、なぜ家族の助け合い・絆・一体感を強調するのか?」との問いに、「誰かを犠牲にする国は、誰もが犠牲になる国となり、犠牲の連鎖を、女・こどもを人質に男に戦いに行かせるため」と岡野さんは答える。そして誰もが抑圧されないために「正義としてのケア」の大切さを訴える。講演後、『ケアの倫理からはじめる正義論 支えあう平等』(エヴァ・フェダー・キテイ/岡野八代・牟田和恵訳/白澤社発行・現代書館発売)を買い求めた。岡野さんの講演に、いっぱい怒りをもらって、元気が出た。

 国会議員の科研費介入とフェミニズムバッシングを許さない裁判(フェミ科研費裁判)第2回公判が7月30日に迫る。原告の岡野八代さん、牟田和恵さん、伊田久美子さん、古久保さくらさん、WANのお仲間の応援に、ぜひ京都地裁にいかなくちゃ。

 2日目は第1分科会「聞く、語る、伝える――戦争にNoを」(岸本真須美、石田米子、宮本南海子)に参加。石田さんとは30年前、私の本を読んでくださり、岡山にお誘いをいただいて以来の久々のお出会い。85歳の岸本さん、83歳の石田さん、33歳の宮本さんと世代をつなぐお話となった。

 ふぇみん聞き書き集『めげない女たちの物語』に登場する岸本さんは、生後すぐ、旧「満州国」へ一家で移住。1946年12月末、大連から引揚船で佐世保へ。帰国を待つ間、中国の知人が何かと助けてくれたとか。道端に転がる餓死した子どもの姿が今も目に焼きつき、話すと身体が震えてくるという。戦後の生活も苦労続き。妹の死、母の結核、父や伯父の死、17歳から小6の弟を育てるために働き続け、日本原基地反対闘争など婦民の運動に参加してきたことなど、訥々と語られた。

 石田さんは1945年、東京大空襲後に学童疎開で新潟へ。子ども時代の戦争体験から、見えていなかった戦争を知る中で、「終わった」戦争を学び、知ることと、今なお戦後を生きて、「語らない/語れない」人々と出会うことの難しさを痛感する。 人には「通り過ぎてしまった出会い」がある。戦後すぐの頃、同世代の浮浪児たちや姉の世代の「パンパン」と呼ばれる女たち、朝鮮人部落の人々のことを通り過ぎてしまったのではないかと。

 あの戦争は、すでに遠い。しかし戦争は「語らなければ」伝わらない。戦争を「なかったことにしよう」とする「記憶の暗殺者たち」に抗するため、中国近現代史研究者として日本軍性暴力被害者の大娘(ダーニャン)たちに聞き取りを始めたのが、1996年、61歳の時。以後、40数回に渡り、聞き取りのため中国奥地へ通ったという。『黄土の村の性暴力――大娘(ダーニャン)たちの戦争は終わらない』(石田米子・内田知行編/創土社・2004年)にも詳しい。

 長い沈黙を破って体験を語ることの大変さ、家族や民族の壁に加え、自らの意識さえ打ち破らなければならない辛さ。彼女たちが、たどたどしい表現で吐き出す言葉は、聞く者の意識をも変え、聞き手の概念が崩れていく過程でもあったという。語る/聞くことは双方向の真摯な作業となった。

『戦争と性暴力の比較史へ向けて』(上野千鶴子・蘭信三・平井和子編・岩波書店・2018年)第Ⅲ部「歴史学への挑戦」に、石田さんの試みの記述がある。語り手と聞き手との「対話」の中で性暴力被害の記憶から解放される「モデル・ストーリー」が構築される過程が、オーラルヒストリー論の視座から明らかになる。「一人ひとりがどのように自分の被害を感じ、語ろうとしているか」にこだわりつつ聞いていく。やがて「対話」の中から双方の「物語」が生まれてくる。ついに彼女らは「自分は悪くない」と自身を取り戻し、自らの被害を「解放」の物語として語れるようになっていったという。

 30代の宮本さんは、なぜ若者は戦争に関心がないかを自身をも含めて問いかける。中国吉林省長春の東北師範大学での生活や戦争映画を通して、若者たちに戦争体験をつないでいこうと試みる。「戦争を決して語らなかった」祖父。だが祖父の軍歴証明書をとることで祖父の召集後の軍歴を詳しく知ることができた。軍歴証明書を請求できるのは三親等以内というが、これもまた「伝える」ことの貴重な資料となる。

 石田さんたちは、1998年、加害の日本軍部隊を相手に日本政府に損害賠償裁判を起こしたが、2005年、敗訴。中国・山西省太原市孟県に住む万愛花さんらダーニャン10名も今は存命されず、原告は被害女性の娘が担った。裁判資料の一覧表を見て私は愕然とした。彼女たちが拉致・監禁・輪かんを受けた1941~1944年、その頃、私は北京の胡同(フートン)の奥で生まれ、ぬくぬくと育っていたのだ。母が病気を得て1943年秋、日本に帰国したが、母もまた岸本さんの母上と同じく、戦後、療養生活を送った。1950年代、田舎の牧場から大阪の街に越してきたが、京阪天満の駅構内には靴磨きの少年がせっせと働き、大川の橋の下の掘っ建て小屋から公衆便所に水汲みにくる少女もいた。アコーディオンを抱えて傷痍軍人が電車に乗り込み、「異国の丘」を歌って募金を求めていたことも覚えている。最後まで残った傷痍軍人は、実は何の補償もされなかった在日朝鮮人だったことを、後に大島渚監督のドキュメンタリー「忘れられた皇軍」(日本テレビ・1963年)で知る。これも私の「通り過ぎてしまった出会い」の一つではなかったかと忸怩たる思いがある。

 「記憶の暗殺者たち」は、なぜ戦争を「なかったこと」にしたいのか。これから起こる戦争に「負の記憶」は、あってはならないものだから。だからこそ、それに抗して「聞く、語る、伝える――戦争にNoを」と、いわなければ。

 他の分科会も、どれも参加したかったけれど、叶わず、報告を聞くのみで終わった。夜の懇親会も賑やかに、たっぷりと。山の上のホテルで久しぶりの「おひとりさま」の夜を楽しんだ1泊2日の旅。岡山のみなさま、いい企画とご準備を、ほんとにありがとうございました。

           菊水鉾

             蟷螂山


 京都は祇園祭のただ中、宵々山に出かける。17日の「前祭」と24日の「後祭」の山鉾巡行が終われば京都に夏がやってくる。今年は祇園祭1150年だとか。参院選も、もうすぐだ。

 8月初旬、95歳の母と92歳の叔母を連れて、娘と孫娘を伴い、熊本の家と阿蘇の温泉の旅へ、1年ぶりにゆく。ペースメーカーをつけた母は気圧や気温の変化に敏感だが、今は、よく食べ、数値も正常だ。私も含めて3人とも「ヨロヨロ期」だけど、どうかみんなで無事にいけますように。

ケアの倫理からはじめる正義論―支えあう平等

著者:エヴァ・フェダー・キテイ

白澤社( 2011-08-01 )

黄土の村の性暴力―大娘(ダーニャン)たちの戦争は終わらない

創土社( 2004-04 )

戦争と性暴力の比較史へ向けて

岩波書店( 2018-02-24 )