避難先には布団、蛍光灯、ガスコンロ、アルミ鍋、包丁、紙皿などは用意してあったものの、カーテンやテレビ、冷蔵庫・炊飯器・テーブル・洗濯機などはないため、近所のリサイクルショップで一つずつ買い揃える日々が始まった。

娘の小学校は、避難先から歩いて15分ほどのところにあった。
原発避難者を迎えるのは初めてということもあってか、校長、副校長、担任、クラスメイトすべてが暖かく迎え入れてくれた。

しかし、身近には避難者はもとより、サポート体制もなく、それまでの緊張感からの疲労と受け入れがたい現実、未来への不安も重なり、私の心が悲鳴をあげた。

夜になり娘が寝静まると孤独感が押し寄せ、声を出して泣いた。
電車に乗ると動悸に襲われ、眩暈を覚えるようになった。

そのうえ、娘が登下校の際、仲間はずれにされ、泣いて帰るという事件が勃発した。
このままでは親子で倒れてしまう・・・私は出口を探した。

そんな中、「放射能汚染地域から、汚染がより少ない地域へ少しでも長く離れることにより、体内の放射性物質を排出し、免疫力を高め、健康を取り戻せるようにするためのプログラム」所謂「保養キャンプ」の存在を知った。

本来は福島から避難できずにいる子どもたちを保養させるためのキャンプであったが、すでに関西に避難した子どもも受け入れてくれるというので喜んで出かけた。

そこには懐かしい福島弁があった。
そこにはのびのびと野山を駆け回る子どもたちの笑顔があった。

しかし、「福島では放射能の危険を口に出来ない」と話す保護者の言葉に、福島での自分を重ね、理不尽な現状に怒りが再燃したものだった。

「身近で本音を語り合える仲間の存在こそが、今の自分に必要不可欠だ!」
私は福島からの避難者が多く住む京都へのさらなる移住を決意した。

京都の避難先には、福島だけではなく、宮城、岩手、茨城、栃木など、多方面から、多いときでは100世帯を超える避難者が身を寄せていた。

ある日、娘とともに避難先の商店街を歩いていると、「ママ、あそこ見て!」と。
娘が指差す方向へ目を向けると、そこには風にはためく「脱原発」の三文字が。

私たちはのぼり旗に吸い込まれるように近づいた。
そこには、翌年に控えた自治体首長選挙候補者が、いままさに街頭演説をするところだった。

「福島からの避難者です!脱原発実現のお手伝いをさせてください!」
私はチラシ配りを想定し、スタッフと思しき男性にアピールをした。

すると、「避難者ならば、ぜひ、マイクでアピールを!」
私は人生初の応援弁士を務めることになったのだった。

福島の原発事故による避難者向け住宅は、災害救助法に基づき供与されていた。
災害救助法による応急仮設住宅の供与期間は2年。

そのため、2年目以降は供与延長の必要性が検討される。
したがって、私たちは、「供与延長の必要性を訴える」必要があった。

それは、多岐に渡った
。 避難先自治体への働きかけはもちろんのこと、避難者自身へのアンケート、街頭での署名集め、避難者の現状のお話会の開催、また、福島県や復興庁へも出向き、直接の申し入れの場にも足を運んだ。

しかし、私たち避難者の切なる声は届くことなく、避難者住宅は、2017年3月末を持って終了となったのだった。(京都府は入居から6年)

チェルノブイリ事故後、100万に1~3人と言われていた小児甲状腺がんが多発した。
その原因は、放射性ヨウ素による内部被ばくに由来するところが大きかったといわれている。

福島県においても小児甲状腺がんは多発している。
私たちはいったいどれほど初期被ばくさせられたのか?

事故当初の避難元空間線量から、おおまかな初期被曝量を計算したところ、2011年3月15日の1時から3月26日の5時までの11日間だけで、1.5ミリシーベルトという被ばく量が表示された。

一般人の年間許容被ばく線量が1ミリシーベルトといわれている中、たった11日間でそれを超える被ばくをさせられてしまった。
驚きと同時に悔しさと怒りが再燃した。

もう、これ以上の被ばくは許容できない。
それゆえ、避難の継続は必須なのだ。

「子どもを守りたい」、「命を守りたい」と、着の身着のままで放射能から逃れた。
しかし、避難先からは追い出され、補償は皆無に等しく、命や健康を脅かす放射能被ばくから逃れるための権利はまったく守られていない。

私は、「避難の権利」、「ふつうの暮らし」、「安心の未来」獲得のため、仲間と共に裁判で闘うことを決めた。
福島の原発事故による賠償訴訟は、全国で約30提訴されている。

私が原告となっている原発賠償関西訴訟は、8月22日、23回目の裁判期日を迎える。
「原発」について、「原発事故避難」について、共に考える日にしていただけたら幸いである。