もう20年以上も前になるが、メキシコの先住民ウィチョール族の村を数年にわたり何度か訪問した。
ウィチョール族は、メキシコの北西部に位置するハリスコ州とナヤリット州を中心とした地域に居住する民族で、多くの村がシエラマドレ山脈の山の中にある。主要な村に行くにも舗装されていない道をバスで10時間以上かけて行くか、あるいはプロペラ機で行くしかなかった。小さな村となると、ラバや徒歩でしか行けないところもあった。急な崖道を3時間ほど登ったり下ったりしたところにある村にも行った。
このようにアクセスがとても不便な地域に住んでいるウィチョール族は、メキシコの他の先住民族と比べても、より伝統的な生活様式や宗教儀式を維持していた。同時に、そのアクセスの不便さから保健医療や教育といった基本的なサービスが不足しており、経済的にも貧しく、本来なら治るべき疾病やケガがもとで亡くなってしまうケースも多く見られた。
村の生活
村を訪問する際は、もちろんホテルや旅館があるわけではないので、村の人々の家に泊めてもらった。多くの家は、土でできた日干しレンガを積み上げて作った寝室兼居間一部屋と台所兼食堂一部屋の二部屋からなっていた。どちらも床は土間で、木の枠を取り付けた小さな窓が一つか二つ。その一つの寝室に大人から子供まで家族全員が一緒に寝ていた。
私が良く泊まらせてもらっていた家には、5人家族でベッドが一台だけあった。そのベッドを「家長」とされている夫が普段は使い、妻や子供たちは床で寝ていた。標高が高いので、冬はかなり寒くなる。そんなときはありったけの洋服を床に並べて敷き、それを敷布団代わりにして寝た。訪問者があるとベッドはその訪問者に譲られる。私もはじめの数日間はベッドで寝かせてもらうものの、だんだん気が引けてきてそのうち床で寝るようになった。
その家のトイレは、庭の片隅に石を一メートルくらいの高さに積み重ねて円型に囲んだだけのものだった。しゃがんでいると周りが見渡せ、時々隣の住民と目が合うこともあった。地面に排泄物を落とす穴が開いているわけではなく、用を足してしばらくするとその辺をブラブラしている豚がやってきて、処理してくれるという仕組みだった。その豚が時々予定時間より早めに、こちらが用を足している間に来てしまうので、片手で追っ払いながら、あるいはしゃがみつつカニ歩きで移動しながら用を足したこともあった。
食事はトウモロコシで作ったメキシコの主食トルティージャとフリホール豆(だけ)だった。クリスマスと年末年始に滞在した際は、「何か特別なご馳走がでるのかな」とひそかに期待したこともあったが、そのような世間が特別としている日も変わらずトルティージャとフリホール豆のみの食事だった。子供たちへのクリスマスプレゼントも誕生日プレゼントもなく、それが子供たちにとっても当たり前だった。
唯一人々が肉を食べていたのが年に数回あるお祭りのときだった。毎年初めの村の権力者交代の儀式、聖週間や復活祭と同時に行われる伝統的儀式、収穫祭など。それらの儀式やお祭りの際に牛や鶏が生贄として捧げられ、最後に屠られ、その肉が祭りを取り仕切るシャーマン(祭司)や楽士、親族等参加者たちに分けられた。余った肉は村の人々にも売られた。冷蔵庫はなかったので(電気は村の発電機が稼働される夜の2時間だけあった)、肉は天日で干され保存された。
これらの儀式・お祭りは、シャーマン(祭司)や村で数年ごとに選ばれる祭官によって執り行われた。シャーマンも祭官もほぼ100%男性であるが、男女一対で参加しなければならないため、妻あるいは娘、母親が同伴した。お祭りは、村の中心にある伝統的な寺院とその周りで行われた。寺院の周りの広場に焚火がたかれ、一晩中シャーマンが神に捧げる歌を歌い、楽士が演奏し、祭官や家族が踊った。お祭りによってはこれが数日間続けられた。
これらの儀式に欠かせないのがお酒である。テフィノ(Tejuino)と呼ばれるトウモロコシを発酵させて作ったお酒とアグアルディエンテス(Aguardientes)と呼ばれる度数の強い蒸留酒が際限なくふるまわれた。
女性の生活
政治的にも宗教的にも村を仕切っていたのは男性だった。家庭でも男性の言うことが絶対であり、女性はそれに従う役割を担っていた。女性は朝早く起きてトルティージャを作り、それから掃除、洗濯、料理、子供の世話など朝早くから夜遅くまで家事に追われていた。
当時私が訪問していた別の先住民族の村では、トルティージャを作るためのトウモロコシを挽く機械がたいてい村に一台か二台あり、毎朝女性達がその挽き機がある小屋にトウモロコシを入れたバケツを持って集まった。女性達はトウモロコシが挽き終わるまで井戸端会議をしながら待つ…それが女性達が集うことのできる唯一の時間・場だった。しかしウィチョール族の村にはそのトウモロコシ挽き機がまだなく、各家庭で手動の挽き具を使っていたため、その女性達が唯一集うことができる時間・場さえなかった。
これらの村では10代の少女と40代~60代くらいの中高年男性間の婚姻や一夫多妻婚がみられた。ときには12、3歳の少女が妻という夫婦もみられた。
あるお祭りの際、50代くらいのシャーマン(祭司)が祭りを取り仕切っていた。そのシャーマンの横に赤ちゃんを世話しながら祭りに参加している12歳くらいの少女がいた。最初はこの少女が彼の娘か孫で、母親あるいは祖母に代わって同伴しているのだろうと思っていた。ところがしばらく様子をみていると、その二人は夫婦で、赤ちゃんは夫婦の赤ちゃんだということが分かった。
一夫多妻の家庭では、一つの敷地内に寝室だけを分けて2人あるいは3人の妻が生活しているというケースがあった。料理や洗濯などの家事を妻同士が助け合い、協力しあっていると聞いたこともあった。
10代の少女も一夫多妻婚の妻も、村の習慣ということで彼女達なりにその状況を当たり前のこととして受け入れ、それなりに幸せに暮らしているのだとそのときは思っていた。
聴くことのできなかった声
お祭りのときは、普段おとなしく家で過ごしている女性達も、大酒を飲み、煙草を吸い、踊り、騒ぎ、叫び、わめき、ときには暴れ、ときには村の広場で寝ていることもある。女性達は立ち上がれなくなるくらい酔っぱらい、ところかまわず倒れ、寝転び、時には上から下から吐瀉物を出しまくる。祭りの間はそれが当たり前の光景として見られ、誰も咎めない。
この女性達の様子をその場に一緒にいた友人に「お祭りのときって女性達も飲んで騒いで吐き出してすごいよね!」と楽しそうに話すと、その村に長年住み込みフィールドワークをしていたその友人は「それは彼女達にとってそれしか苦しみの発散方法がないから…」と悲しそうに答えた。年に数回の祭りの場が女性達にとって何をしても許される場であり、唯一の苦しみを吐き出すことができる場だった。文字通り何から何まですべてを「吐き出す」場。このような場がなければ日々の暮らしはつらすぎて苦しすぎてとても耐えられるものではないのだろう、とその友人は言った。
また別の時には、ウィチョール族の村に長年住んでいるカトリック教会の修道女と一夫多妻婚の話題になった。私が「一人の夫を共有しながら妻同士が仲良く協力し合っているのを見てすごいと思った」という話をした。するとその修道女は、多くの女性達にとってそれは決して平気なことでも受け入れられることでもなく、実際は嫉妬があり苦しみがあること、それをこっそりと修道女に訴えてくること、そしてなかにはそのつらさ、苦しみに耐えきれず自殺する女性もいることを教えてくれた。
私が聴くことのできなかった女性達の声なき声、叫びがあった。
背景や状況を理解し、信頼関係をつくり、意識しなければ聴けない声がある。そして声をあげることができないまま一生を終えていく女性達がいることを知った。