トランスフェミニストとして活躍するジュリア・セラーノ (Julia Serano)さんの記事 “Trans Women Are Not Women” Arguments"は、「トランス女性は女性ではない」という論じ方の何が間違っているかを説明したものです。
この記事の翻訳を、イチカワユウさんがブログで公開されています。こちらに修正を加え、WANのアーカイブ「トランスジェンダーとともに」に収めさせていただきました。
SNSではトランス排除の言葉が、今また吹き荒れています。こちらの記事は、何度も繰り返されている「誤謬」が整理されたものです。
トランスジェンダー差別・排除に抗うために、ぜひ読んでいただきたいと願っています。
ジュリア・セラーノさんの元記事
Julia Serano, “Trans Women Are Not Women” Arguments" https://medium.com/@juliaserano/debunking-trans-women-are-not-women-arguments-85fd5ab0e19c
イチカワユウさんの元記事
イチカワユウ「「トランス女性は女性じゃない」論の間違いをすっぱぬく」https://note.com/yu_ichikawa/n/n044bc655d1d8
Julia Serano, “Trans Women Are Not Women” Arguments"
「トランス女性は女性じゃない」論の間違いをすっぱぬく(翻訳:イチカワユウ、協力:佐藤まな)
最近、ニューヨーク・タイムズから、トランスフェミニストとしての仕事や書物についてインタビューを受けた。インタビュー前の会話で、インタビュアーが今年前半のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(Chimamanda Ngozi Adichie)の「トランス女性は女性ではない」というコメントについて質問しようとしているのがわかった。そこで、インタビューの準備のために、私は自分の著書『Whipping Girl: A Transsexual Woman on Sexism and the Scapegoating of Femininity』のなかからこのような主張への反論をすべてリストアップした。インタビューの間、これらの主張について詳しく述べるつもりがあったが、結局は字数の関係で最終的な記事には一部しか載らなかった。しかし、「トランス女性は女性ではない」論は定期的に出てくるし(しばしば自らをフェミニストと主張する人たちによって主張される)、ここで関係ありそうな反論をまとめておくことに意味があると思った。
前提:「シスジェンダー」という用語について
このエッセーのなかで、私はトランス/トランスジェンダーではない女性のことを指してシス/シスジェンダーという言葉を使う。この用語の背景にあるロジックについては、私のサイトの「シス用語についてよくある質問」をみてほしい。またその後フォローのために書いた2本のエッセーもここから読むことができる。
「トランス女性は女性ではない」論者はしばしば「シス女性」と呼ばれることに反発する。そう呼ばれることで、彼らの女性性が傷つけられたと勘違いしているのだ。それはこの用語の目的ではない。シスという用語を使うたった一つの理由は、無徴表な多数派を名付けるためだけである(白人女性、異性愛女性、健常体の女性、などと言うのと似ている)。誰かを「シスジェンダー」と呼ぶことは、単に彼らがトランスジェンダーの経験を持っていないことを意味するに過ぎない。
トランス女性の現実
トランス女性は、一人一人大きく異なる。おそらく唯一の共通点といえば、生まれたときに男性の身体を割り当てられたことに対して何かが違うという感覚を持ち、そして/もしくは、女性であるべきという自己理解を持っている点だけであろう。シスジェンダーの人々のなかには、トランスジェンダーの経験を真剣に捉えることを拒否する人がいるが、トランスジェンダーの人々は、実質的にすべての文化で、歴史を通じて存在してきた。現在では、人口の0.2~0.3%(もしくは、もう少し多く。詳しくは下の注釈 [訳注:「レイチェル・ドレザルの誤謬」下の注釈] を参考のこと)がトランスジェンダーだと見積もられている。つまり、私達は単に存在するのだ。
私自身は、何年もの間、抑えきれない、不可解な気持ちの意味を理解しようとしてきた。そして、17年前に、ようやく性別移行をはじめることに決めた。それ以来ずっと女性として生きている。人生において毎日毎日人々は私のことを女性だと知覚し、女性として扱う。結果的に私は日常的に性差別を経験している。「トランス女性は女性ではない」と主張するシスのフェミニストが、アイデンティティについての質問に取り憑かれている時(「どうやって「男」が「彼自身」のことを女だなんて呼ぶことができるんだ?」)、彼らは、私たちが非常にリアルな女性としての生活経験を積んでいることを無視しているのだ。
より一般的な女性と同様に、多くのトランス女性はフェミニストだ。フェミニズムとトランスジェンダーアクティビズムは、相容れないものでも、相互排他的なものでもない。インターセクショナリティを認めるフェミニストとして、私達は、すべての性差別と周縁化を終わらせるために戦うべきだ。そして、ここには伝統的な性差別と、トランスフォビアの両方が含まれる。トランス女性をシス女性と違うグループのなかに閉じ込めようとすることは、性差別を終わらせるというフェミニズムの中心目標の達成のために、少しも役に立たない。
「生物学的」女性の誤謬
トランス女性が女性ではないという主張は、多くの場合生物学についての本質主義的な(したがって間違っている)想定によっている。例えば、人々は、トランス女性は「遺伝子的に女性じゃない」と主張する。しかし、現実には、私達には人の性染色体を簡単に知ることなどできない。実際にはほとんどの人は、自らの性染色体を調べたこともない。実際調べてみて、結果に驚く人もいる。
もう一つのよくある主張は「生殖」に関わる生物学的なものだ。例えば、トランス女性は生理を経験していないとか、妊娠できないとか。これは、多くのシスジェンダー女性が無月経であるとか、妊娠できない事実を無視するものだ。
性器をめぐる主張も同様に問題がある。女性の性器は人によって大きく異なる。また性染色体や生殖の能力の場合と同じく、私たちは毎日出会う人々の性器がどうなっているか簡単に見ることはできない。もし私とあなたが出会ったら、私はあなたの性器を見るまで「この人は女性だ」と認識することを拒絶するべきなのだろうか? そして女性が、単に彼女の股間についているものに還元されることほど、性差別的なことがあるだろうか? それは何世紀も差別的な男たちが女性に対してし続けてきたことなのではないか?
私はこのような生物学に訴えることは、本質的に反フェミニスト的だと思う。性差別者たちは、生物学的な違い(その違いは現実に存在するときもあれば、想像上のときもある)を指摘して女性を軽く見てきた。フェミニストたちは、長い間、このような身体の対象化に長年挑戦し、私達は生物学によって制限されないと主張してきたのだ。そのため、誰でもフェミニストを自認する者が「生物学」や「身体の部位」を理由として、トランス女性を軽く扱おうとするのは、偽善的だ。
(2017年7月17日追記:)この件については、その後執筆した論考Transgender People and “Biological Sex” Mythsでより深く論じている。
ケイトリン・ジェンナーの誤謬
近年では、「トランスジェンダーは、女性ではない」論は、いつもケイトリン・ジェンナーのことを引用し、たいてい以下のようなことを主張する。
「ジェンナーのように、生涯を通じて男性として生きてきて、男性特権を享受して生きてきたような人間が、どうやったら女性だと主張することができるのか?」
この例では、一見もっともらしい生物学への訴えがなされている。というのも、多くの人々がジェンナーを肉体的に男性のデカスロン選手として記憶しているからだ。しかし、この主張の趣旨というのは、結局「女性は、社会化され、さらに/あるいは性差別を経験するからこそ女性である」ということだ。
しかし、私はどうだろう? 私は、成人して以来、女性として過ごした期間の方が男性として過ごした期間よりも長い。そして、性別移行以来、多くの性差別を経験してきた。路上での声掛けやセクシュアル・ハラスメント、デートレイプをされそうになったり、男性からかぶせるように話されたり、真面目に受け取ってもらえなかったり、などなど。または、人生の早い段階で社会的移行な移行を果たした若いトランスの女の子についてはどうだろう?
もしも、「女として社会化されている」とか「性差別を経験している」ことが女性としての条件なら、多くのトランス女性はそれらを経験しており、したがって彼らもまた女性なのだと認めざるをえないだろう。ケイトリン・ジェンナーのように、年齢を重ねてからの移行を始めるトランスも、一旦人々から女性だと見なされるようになれば、性差別に直面するだろう。そして、問題になっているトランス女性が(パス度が低いために)見るからにトランスジェンダーとしても、彼女は「トランス・ミソジニー」という形でたっぷりと性差別を経験することになる。
もしも、あなたが「女性は社会化によって女性である」という説の支持者であるとしたら、以下のシナリオを考えてほしい。若い女の子が自らの意思に反して男の子として生きるように強いられている。何年にも渡って、男性としての社会化や特権の享受をしたあと、彼女は女性としての性同一性をカムアウトし、女性として生きはじめた。あなたは彼女のことを、女性として認めるだろうか? もしもあなたの答えがイエスなら、トランス女性を女性として認めないことは偽善的になる(実際問題「自分の意思に反して、男の子として扱われた」というのは、多くのトランス女性が自身の子供時代の経験として描写することだ)。
大抵の場合「トランス女性は女性ではない」と主張する人たちは、生物学的主張と、社会化の主張を同時に行っている――この2つは明らかに矛盾するにも関わらず(例えば、もしも生物学が主な判断基準なのなら、社会化というのは問題にならないはずだし、逆もまた真のはず)。これは「神はアダムとイブを創ったのであり、アダムとスティーブではない」というような生物学に依ったホモフォビックな主張をする人が、次に社会化の主張(例えば、ゲイの教師や「ゲイ・アジェンダ」によって人々がゲイになるだとか)を行うのと似ている。「トランス女性は女性ではない」と主張する人々は、一貫した議論をしようとするのではなく、必死で台所のシンク全体を私達に投げつけてくるのである。
ジェンダーの社会化が非常に現実的である一方で、私達は誰でも子供時代に経験した社会化を克服し、また超越することができる。ジェンダーの社会化は、人が大人になった時点で終わるわけではない。私達は、ジェンダーに関連した社会的プレッシャーや期待、そして、困難にいつも直面している。あなたが、これがシス女性にとっての真実だと信じるなら、それはトランス女性にとっても、また真実であるに違いないのだ。
「男性的エネルギー」や「男性特権」の誤謬
社会化論から枝分かれしたものの一つとしてこんな主張がある。性別移行をして、女性として生きているにも関わらず、トランス女性は未だに「男性特権」や「男性的エネルギー」を持っている、と。この「男性的エネルギー」という主張は特に性差別的なものにわたしには感じられる。なぜならこの言い方は男性がまるで特別で魔法のような力、女性が持てない力を持っていることを暗示しているからだ。
このような主張は、推測や投影によるように見える。例えば、私は長年世間からシスジェンダーの女性だと受け止められているが、誰からも私の中に「男性特権」だとか「男性的エネルギー」を感知したと言われたことはない。しかし、一度私がトランスジェンダーだと知ると、このような特性を私の言動のなかに読み取る人が出てくる。実際のところ、もしも私があなたに対してある女性がトランスジェンダーだと告げるとすると、たとえそれが事実ではないとしても、あなたはその人のことを同様に解釈しなおしがちになるかもしれない。彼女のなかで、少しでもお転婆だったり、ボーイッシュな傾向があれば「男性的エネルギー」の宣言であるように読み取られ、彼女が強く自己主張したり、自分のために立ち上がることがあれば、それは彼女のなかに深く根を張った「男性特権」のあらわれなのだと言われる。
男性特権は、非常にリアルに存在するものだ。私は著書『Whipping Girl』のなかで、私はかつて男性特権を持っていた経験と、性別移行によってそれを失った経験について詳しく書いた。しかし、トランス女性のすべてが男性特権を経験するわけではない(例えば若くして性別移行したトランスなど)。さらにいうならば、特権について語ることの目的というのは――例えばそれが男性特権であろうと、白人特権であろうと、中流・上流階級の特権であろうと、健常者特権であろうと、異性愛者の特権であろうと――それは、支配的・多数派グループに属する人々が、特定の性差別や周縁化に直面しないという事実によって持つアドバンテージについて、意識を向けることである。「トランス女性は女性ではない」論者は、トランス女性の持つ現実の(または想像上の)男性特権についてくどくど言いながらも、彼ら自身のもつシスジェンダー特権の存在を認めたり、それについてしっかり考えたりすることはしない。この事実は、彼らの持つ「特権」への懸念が誠実ではないことを表している。彼らは、単にトランス女性の自認や女性としての生活経験を正当でないとするために、特権という概念を利用しているだけなのだ。
「トランス女性は女性の戯画である」という誤謬
ケイトリン・ジェンナーについての誤謬とも一部重なるが、こんな誤解がある。「トランス女性は女性であるというのがどういうものか知ることなど到底不可能だ。そこで、彼らは多くのフェミニストが拒絶した極端に表面的な『女性であること』のアイデアにかられて性別移行する」。言い換えるなら、トランス女性は実際の女性ではなく、単に女性の「パロディー」だとか「戯画」だというのだ。この主張をする人々は、また男性特権も持ちだす。例えばトランス女性は、「男性の傲慢さ」だとか「男性の特権意識のおかげで、女性を理解したり女性になったと思えるのだ、と。
この理由付けには数多くの問題がある。
1)フェミニンなジェンダー表現に対するネガティブな見方に依拠している(これについては私が虚偽であることをすっぱ抜いた)そして、伝統的に女性らしいとされる格好をしている人たちはシスジェンダーであっても、表面的に振る舞っており、ステロタイプを強化していると暗示している。
2)トランス女性のなかには、フェミニストもおり、また伝統的な女性らしさから外れているトランス女性もいる。
3)トランス女性は、フェミニンになりたくて性別移行するわけではない。私たちは自分が女性である・女性であるべきだという自己理解(一般的にジェンダー・アイデンティティと言われる)に基づいて移行する。
4)伝統的な女性らしさを持つトランス女性は、女性がすべて伝統的な女性らしくあるべきだと主張したりほのめかしているわけではない。また、フェミニンさが女性としてのすべてであるとも思っていない。シス女性と同様に、トランス女性は、自分の表現のために装うのであり、他の女性を批評したり戯画化するために、装っているわけではない。
5)この論理というのは、トランス女性はシス女性の経験がわかると言い張っており、傲慢なのだと告発する。しかし私たちトランス女性は、そんなことは言っていない。現実には、トランス女性としての経験が何であるのか、何がトランス女性の性別移行のモチベーションなのかについてわかるふりをしている傲慢なのは彼女たちの方である。
私はトランス女性として、他の女性の内面で何が起こっているのかはわからないことを率先して認めよう。しかし、「トランス女性は女性ではない」と主張する人々だって、他の女性の経験だとか内心の思いなんてわからないのである!すべての女性は異なっている。私達は一部重複する経験を共有しているが、同時にありとあらゆる面において異なっている。私の知っているトランス女性の全員はこの多様性を認めている。逆に、私達を排除しようとするシス女性たちの方が、女性を構成するもの、あるいは女性の経験について、一つの表面的で典型的な観念を想定しているようだ。
最後に、「トランス女性は女性の戯画である」という主張は、「トランス女性が性差別を補強する」という言説と深く関連している。こちらについては、以下のツイッターのスレッドで論破している。
https://twitter.com/JuliaSerano/status/832069377491034113

脳の違いという誤謬
もしもあなたがシス特権を持たないトランスジェンダーだとしたら、人々は、あなたに自身の性自認を正当化するように強要してくることだろう。それに応えるよくある反応のひとつとして、こんなものがある。「私は身体は男性だけど、女性の脳で生まれたのです」。大抵の場合、これはトランス側が、複雑なトランスジェンダーの経験を、シスジェンダーにもわかる短い話にまとめあげようとして、わざと物事を単純化しているのだ。
他の場合ではトランスジェンダーの人は、ジェンダーによって形が違う脳のある小さい部位が、トランス女性ではシス男性よりシス女性に近いのだという研究を持ち出すかもしれない(なお、この研究を、まだ予備的な結論しか出ていないと見なすか、または妥当だと見なすか否かという点において、トランスジェンダーの人々は皆大幅に異なる意見を持っている)。
しかし、シスジェンダーのフェミニストのなかには、このことから、「すべての」トランスの人々は脳の性差について非常に本質主義な心情を持っており、ひいてはフェミニズムを侮辱していると考える人もいる。多くの場合、彼ら自身、トランスのアイデンティティを攻撃する手段として、本質主義的な主張(例えば生殖機能についてなど)を同時にしているのだが(エリノア・バーケット(Elinor Burkett)がこの「シンク全体」式の論説でしているように。彼女の主張に対する私の反論動画はこちらから見られる [訳注:現在リンク切れ])。
レイチェル・ドレザルの誤謬
ケイトリン・ジェンナーとならび、現在の「トランス女性は女性ではない」論者が大抵いつも持ち出すのがレイチェル・ドレザルだ。ここで示唆されているのは「男」が女であると主張することは、白人が黒人であると主張するくらい馬鹿げていて、特権により可能になっている、ということだ。しかし、レイチェル・ドレザルは一人の人間にすぎないのに対し、トランスジェンダーは、文化や時代を超えた現象であり、人口の0.2~0.3%を占める存在だ(一人の読者の指摘によれば0.6%という最近の研究結果もあるという)。もしも、特定のジェンダー表現に当てはまらない人々の存在について、より学びたいのであれば、その歴史と文化的多様性について触れている私の著書『Excluded: Making Feminist and Queer Movements More Inclusive』をおすすめする。
「トランス女性は違いを全否定する」という誤謬
「トランス女性は女性ではない」論者というのは、シス女性とトランス女性の間に違いがあるのに、トランス女性はその違いを認めない、と主張する。私はこのような主張には果てしなくイライラする。私は、人生において「自分の経験がシス女性と100%同じだ」と主張するトランス女性には一人として出会ったことはない。実際には、私達トランスコミュニティにいる人間が、人々を「トランスジェンダー」だとか「シスジェンダー」と描写すること自体、潜在的な違いを認識している証拠なのだ!
問題なのは、私達(例えばトランス女性)が、違いを無視していることではなく、「トランス女性は女性ではない」と主張する論者が、多くの類似点を無視している点にあるのだ。
60年代、70年代においては、多くの異性愛者のフェミニストたちが、女性団体やフェミニズムからレズビアンを排除しようとした時期があった。彼らの正当化の理屈というのは、不気味なほど「トランス女性は女性ではない」論と似ている。彼らはレズビアンを「圧政的に男」であり、「男女の階級システムを補強しようしている」と告発した(上のツイッタースレッドを参照のこと)。上の段落でリンクしたウィキペディアの記事を読めば、レズビアンたちがこのような告発に立ち向かい戦ったことがわかるだろう。レズビアンたちは自分の経験が100%異性愛者の女性と同じと思っていたからそうしたわけではない。彼らは、フェミニストの一部が、レズビアンをフェミニズム、そして女性のカテゴリから排除しようとしていたから戦ったのだ。まさに、「トランス女性は女性ではない」論者が今私達にしようとしていることと同じだ。
トランス女性は女性である。私達は、シス女性と「全く同じよう」ではないかもしれない。しかし、シス女性だって、お互いに「全く同じよう」ではないのだ。私達は皆女性であると自認し、この世界で女性として生きているという共通点を持っている。だからこそ、私達は皆いつも性差別に直面しているのだ。それこそが、私達が注力し、共に立ち向かわなければいけないことだ。
冒頭で述べたように、トランス女性をシス女性と違うグループのなかに閉じ込めようとすることは、性差別を終わらせるというフェミニズムの中心目標の達成のために、少しも役に立たない。むしろ、私達が協力していくべき活動の邪魔になるだけだ。
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