ある女性誌から「真のラグジュアリー(ぜいたく)」についてのアンケート企画が来た。
コロナ禍のもとで「本当に自分の大切なことや物はなんだろう? ラグジュアリーとは何?」を問い直す企画だそうだ。それに答えているうちに、こんな気分になった。
「今、あなたにとってのラグジュアリーとはどういうものでしょうか?」という問いには、「拘束のない、自由な時間」。こんなにぜいたくな経験はない。
「不要不急」の本がやまのように読める。よゆうがなくて書けなかった文章がどんどん書ける。読むと書くがあれば、生きていける。
 食べることが大切になって、手のかかる料理をしたり、ケーキも焼く。失業者同然だった大学院生時代も、時間があり余っていたからケーキを焼いた。だがその時は、世間の時間が動いているのに、自分の時間だけが止まっていたような気分がして、焦りがあった。いまは世界中の時間が止まっている。こんな静かな時間があっただろうか。
 ひとに会わなくても平気だし、ひとりでいることが好きだと再確認した。
 「コロナ疎開」で山の家にいることも「ラグジュアリー」の条件のひとつかもしれない。人が見ようと見まいと、花は咲き、季節はめぐる。早春の芽吹きから、遅い春が来る。こぶしの次に桜が満開を迎え、雪柳と山吹、そしてミツバツツジ。新緑のあとには、緑が日に日に濃くなっていく自然に囲まれているぜいたく。
 世の中には自分の死とともに世界が消えてなくなる、と思う人もいるようだが、わたしはもっと謙虚だ。自分の生の前にも自然はあり、自分の死の後にも自然は変わらずにある、と思えることが救いだ。自然史的時間のなかでは、コロナ禍は地球にとってちょっとした痒みにもならないだろう。
 他人に会わないので、すっぴん、ノーブラ、ユニクロ・・・で何もかもまにあってしまう。他人の目を気にした評価に、ほとんど価値がないことに気づく。クロゼットにある山のような服、アクセサリボックスのなかのお気に入りのいろいろ。こんなものなしで過ごせるのだと思ったら、ほとんど「末期の眼」のような気になってくる。通販のパンフは届くが、ほしいものもほとんどない。人間の暮らしがどれほど少ないモノで足りるかを痛感する。
 英語の表現にdo without〜(〜なしですませる)というフレーズがある。ここにいろんなものを代入していく。すると、ほとんどのものが入ってしまうことに気づく。もしかしたら、自分の人生も入ってしまうかもしれない。わたしがいなくても、世界はなんの痛痒も感じないだろう。ブラックホールに何もかも放り込みそうになるので、途中で指折り数えるのをやめる。
 アンケートの問いは、コロナ後の世界について、「これからの時代、人々はどのようなものをラグジュアリーと感じるようになると思いますか?」と畳みかける。災厄が終わったあと、また一目散に消費、享楽、美食・・・の巷に駆けつけるのだろうか?だとしたら、わたしたちは災厄から学ぶことがあまりに少なかったことになるだろう。
 災害がおしえるのは、「あたりまえの日常」が、昨日のように今日もつづくことの「ぜいたく」。3.11でもわたしたちはそれを学んだはずだった。そしてその「日常」は、とても簡素な日常のはずだ。

(朝日新聞北陸版朝刊2020年5月22日付けコラム「北陸六味」タイトルと原文を一部変更した)
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