今月より、「陽の当たらなかった女性作曲家たち」のシリーズIIIを始めさせていただきます。

 また、来る9月11日にドイツのナクソス(NAXOS)より女性作曲家作品集のCD、”Pioneers”(パイオニアたち)が発売されます。もともとはWANのサイト上から始まったエッセイと作品演奏が、このような進展を見ましたこと、心よりお礼申し上げます。最後に掲載しましたCDの案内を併せてご覧ください。

 第1回は、ポーランドのマリア・シマノフスカ(Maria Szymanowska)です。1789年ワルシャワに生まれ、1831年、ロシアのサンクトペテルブルグで当時流行していたコレラにより命を落としました。

 生年の1789年は、フランス革命の起きた年です。当時のポーランドは、1772 年より他国による3分割統治が続いており、国家主権はありませんでした。ユダヤ人の両親は、その後カソリックに改宗します。父親は地主であり、ビール会社の経営にも成功していました。母親は元々、貴族の出でした。インテリ層の錚々たる顔ぶれ――作曲家アマデウス・モーツアルトの息子、後にショパンの先生となったエルスナー夫妻も顧客に連なっており、両親はサロン形式のコンサートを主宰して愛娘のキャリアに一役買っていました。複数の兄弟姉妹がいましたが、正確な記述は見当たりませんでした。

 ミキェヴィッチと結婚したマリアの娘Celiaとその娘たち

 マリアは、最初スピネットと呼ばれる小型の鍵盤楽器を達者に操り、聴衆を魅了しました。その後8歳でピアノを習い始めます。先生はリソフスキ氏とグレム氏で、生涯にわたり師と仰いだのはこの2人だけでした。華麗なるテクニックと音楽性で評判が評判を呼び、また、ピアノ楽器への探究心も旺盛で、イギリス製のブロードウッドを好んでいました。評判はワルシャワ中を駆け巡りました。1810年、作曲家ケルビーニは自身の作品「幻想曲」をマリアに献呈しました。

 その後パリへ演奏旅行へ出かけます。ポーランドへ戻った際は、すでに結婚をしており、夫のヨーゼフ・シマノフスカ氏との間に3人の子供をもうけますが、10年で離婚をしています。夫は妻が家庭にとどまることを好み、マリアの活動は受けいれられず不仲となりました。末娘は後年、ポーランドを代表する詩人ミキェヴィッチと結婚しました。


 引き続きマリアは、1815年から1820年は、ポーランド国内、ドレスデン、ウィーン、ロンドン、サクトペテルブルグ、ベルリンと各地を演奏して歩きました。コンサート活動の傍ら、作曲も始めました。ドイツのブライトコフ社より1820年に最初の楽譜が出版されました。その後も、1827年まで絶え間ない活躍が続き、ヨーロッパ各地で成功を収めました。シューマンが彼女の曲を好み、フンメルにも出会い、彼の曲を演奏しました。文豪ゲーテはマリアの演奏に感銘を受け、著作の中で彼女に触れており、一説には2人は親しい間柄にあったとも言われています。フランスではロッシーニの推薦文がキャリアを広げる助けになりました。そして1827年のワルシャワへの凱旋公演では、若きショパンも彼女の演奏に感銘を受けた1人との記録が見つかっています。華やかなエピソードは枚挙にいとまがありません。

 1827年以降はサンクトペテルブルグに居を移しました。ロシアは女帝エカテリーナ2世の時代から、女帝がドイツ人だったことも手伝い、西ヨーロッパの文化や音楽を積極的に取り入れ、音楽家を招いていました。オペラではイタリア人の歌手たちが厚遇を受け、サンクトペテルブルグで上演が繰り返されました。ノクターン(夜想曲)の礎を作ったアイルランド人、ジョン・フィールドも長らくサンクトペテルブルグやモスクワに住みました。当時の皇帝は、マリアに皇太后や王女のためのお抱え宮廷音楽家の地位を与えました。最優遇の地位のピアニストでした。活発なコンサート活動のほか、指導にも熱心に取り組み、かねてよりの評判から貴族や富裕層の子弟たちがレッスンを受けました。当時から数の少なかった女性音楽家ですが、1830年代にはドイツのクララ・シューマン、フランスのマリー・プレイエルがコンサートを開催できたのも、シマノフスカの活躍がきっかけになりました。その他、ロベルト・シューマンやフランツ・リストもコンサートに訪れ、華やかな首都サンクトペテルブルグの文化に貢献したのです。

 夫と別れて子供達を引き取った後は、養育費、生活費等、すべてが彼女の腕にかかっていました。幸い宮廷音楽家としての定収入は大きな助けとなりましたが、実家の家族達もワルシャワからサンクトペテルブルグに来て、彼女のサポートに努めました。家族をあげての応援により、子供を家に残してコンサートへ出かけられる環境だったのは、当時としては極めて稀な幸運だったのではないでしょうか。また、ピアニストとして素晴らしい評判のあった彼女には、富裕層の生徒たちが列をなし、楽譜も次々と売れ収入の助けになりました。

 サンクトペテルブルグでの活躍は、1831年にコレラの感染により痛ましい最期を迎えましたが、彼女の残した有形無形の音楽的遺産は、その後どのように継承されたのか?とリサーチを続けました。あいにく、現在に至るまで知名度が決して高くないのは、死後は忘れ去られることが多い女性作曲家の宿命と見るのが自然かと思います。

 加えて、ロシアはその後独自の音楽の発展に力を注ぎ、グリンカやバラキレフがその役を担いました。バラキレフは宮廷聖歌隊長として、皇帝の信頼も厚く、マリアに友好的ではありましたが、それでも彼女の音楽的遺産を重要視することがなかったのは、至極当然のことでした。チャイコフスキーを含め生粋のロシア人男性の作曲家たちが、その後のロシア作曲界を牽引していきました。

サンクトペテルブルグにあるピアノをかたどったマリアの墓


 彼女の作品は、自身が卓越したピアニストだったことから、ピアノ作品が多く残されています。練習曲、プレリュード、夜想曲、ファンタジー、ポロネーズ、ワルツ等。他には歌曲やピアノ三重奏曲を含む、複数の室内楽曲を残しています。ショパンに先立ち、民族舞曲を作品に取り入れた作曲家とされていますが、それも広くは知られていません。

 「陽の当たらなかった女性作曲家たち」では、過去2回ポーランドの女性作曲家を取り上げています。第9回テクラ・バダジェフスカ(1829-1861)と、シリーズⅡ-11のヤドヴィガ・サルネツカ(1877-1913)です。サルネツカは早くに両親を亡くし、貧困の中、才能を黙殺する男性作曲家たちのいじめもあり、精神を壊し悲しい末路をたどりました。バダジェフスカは自作を手売りをしたことが、作品が世界に広まるきっかけとなりましたが、若くして子供を置いて亡くなっています。このように育った環境や家族に違いがあり、しかもマリアの時代は2人より古いとはいえ、才能に加えて美貌であり、富裕層の家族が愛情を持ってサポートするという環境も、活動をしていく上で大きな違いがあったことと察せられます。

 作品演奏は、ノクターン(夜想曲)変ロ長調をお聞きいただきます。ワルシャワから引越したサンクトペテルブルグで書かれたとされています。ノクターンはもう1曲残されており、変イ長調3手のためのノクターンです。2曲ともIMSLP/楽譜無料ダウンロードサイトで入手可能です。


出典 References

-"New Grove Music Dictionary"
-"Notes on Polish Women Composers" by Maria Anna Harley (Maja Trochimczyk), Polish Music Center in University of Southern California. Originally published on the PMC website on 8 August, 2000.
-"Polish Female Composers in the Nineteenth Century" by Magdalena Dziadek, Musicology Today, Vol.16: Issue 1, 31 Dec.2019
https://content.sciendo.com/view/journals/muso/16/1/article-p31.xml
-Wikipedia in English, "Maria Szymanowska"
-マリア・シマノフスカ協会 日本語と英語サイト


《CD発売のお知らせ》

 女性作曲家作品集「Pioneers」が9月11日に発売されます。
 ナクソスグランドピアノシリーズ、NAXOS GP844。こちらは視聴のページです。

https://www.naxos.com/ecard/grandpiano/GP844/#

 皆さまのお耳に留まりますよう、よろしくお願いいたします。