今回は、ポーランドのテクラ・バダジェフスカをお送りします。(Tekla Badarzewska-Baranowska、原語・ポーランド語ではボンダジェフスカと発音します。)
バダジェフスカは、誰もが知っているメロディ「乙女の祈り」の作者。母親の出身地ムヴァで1829年に生まれ(1834年説もあり)、1861年にワルシャワで亡くなりました。ムヴァはワルシャワから北方向100kmの土地です。
バダジェフスカに関する記録は極端に少ないのが現状です。その背景には、ちょうどこの時代のポーランドが地図上に存在しない国であったこと、つまり、ロシア・ドイツ・オーストリアの3国による分割統治の下にあったことが挙げられます。ポーランドの文化や伝統をあからさまにできない苦しい時代でした。この歴史的・政治的背景は、根強い男性優位社会だったのではないだろうかと思いました。加えて、バダジェフスカが住んでいたワルシャワ市の地域はユダヤ人街だっために、第二次世界大戦でナチスにより徹底的に壊滅させられたことも、記録が極端に少ないことに拍車をかけていると言われています。女性であるバダジェフスカが、どんなに素敵な曲を書こうが、女性の一般的な趣味の範囲を超えていないものとして扱われていたという記録もありました。
一方で、世界的に有名なピアノの詩人ショパン(1810年~1849)。同じくポーランドの出身ですが、比類なき天才であったことは言うまでもない事実として、しかし、彼の記録はあふれるほど多いことと比べると、女性作曲家への着目度の低さは明白な事実ではないかと思います。
ちなみに、ショパンは、ポーランド農民の音楽を知るに及び、これらの民謡採集--ポロネーズ、マズルカに行き当たり、そこから、自身の作品を書き上げました。後年のハンガリー人作曲家・バルトークやコダーイも同じ方向性の作曲家です。
18世紀末、ポーランドではピアノが人気のある楽器でした。良家の子女の結婚前のたしなみとして普及していきました。バダジェフスカも裕福な家庭の出身、ピアノを楽しんでいたのでしょう。「乙女の祈り」は1851年に作曲しました。ポーランド日刊紙に楽譜の広告の記録があります。バダジェフスカ自身が、自宅や音楽ショップで熱心に手売りもしていました。翌年には重版がなされ、その翌年には早くも第8版を重ね100万部が売れました。現代のインターネットの普及や、広告、流通とかけ離れた時代、この数字は驚異的といえるでしょう。ポーランド国内で静かに人気を博していたことが窺われます。
その後、なぜ「乙女の祈り」がポーランド国内のみならず、世界中で弾かれるようになったのか? これは、フランスの著名な音楽雑誌が(La Revue et Gazette Musicale)、1858年に雑誌の付録としてして楽譜を付けたことがきっかけでした。タイトルはフランス語で書かれています。
ちょうどバダジェフスカが生まれた頃、1830年、ポーランドではロシアからの独立を求める11月蜂起が起こり、しかしながら、独立を企てる革命は失敗に終わり、ロシアに鎮圧され、それまでの自治すら取り上げられました。多くの国民が亡命を余儀なくされ、ショパンもポーランドを出ました。ウィーンを経てパリに居を構えます。当時のパリは、すでにポーランドからの多数の亡命者がいましたので、すぐに仲間もでき、有名作曲家たちとの知己も得て、またたく間にフランス社交界で才能を認められていきました。
ショパンより20歳若いバダジェフスカは、23歳のころ結婚します。夫のヤン・パラノフスキは彼女の音楽に理解があり、3人の子供が生まれ、さらに姉の2人の子供を引き取り、5人の子供の母親でした。しかしながら、1861年、若くして病気で亡くなりました。この辺りの記述も、あいにく見つかりませんでした。
生涯で34曲を残していると記録がありながら、その根拠は乏しいものです。その上、彼女の名前を冠して出版された曲が世界中に100曲ほどありますが、その信憑性も乏しいとされています。確実に彼女の作品として出版されたものは、「乙女の祈り」「マズルカ」「甘き夢」「田舎小屋の思い出」の4編のみ。前述のフランス音楽雑誌(La Revue et Gazette Musicale)1863年号で、編集者は彼女の死後に出てきた曲の数々はゴーストライターによるものだと告発しています。
ちなみに日本語のタイトルに使われていることば「乙女」は、一般的な少女の意味合いではなく、聖母マリア--乙女/処女を意味しています。日本語や韓国語タイトルの「乙女」は、その意味合いを好意的に連想する社会通念--ピュア、初々しさ等のイメージを喚起するために一層の人気を博したとされています。
早世したバダジェフスカを偲んで、夫のヤンはワルシャワの墓地に、楽譜を携え立つバダジェフスカのお墓を建てました。立派なお墓です。
ヤンは、その後独立運動へ加担したかどにより、中央アジアへ流刑され、その後の消息はわからなくなりました。また、子供のうちの2人は、ポーランドの名門・ワルシャワ音楽院で勉強をしましたが、やはりその後の消息はわからないままです。
バダジェフスカへの注目度は、世界中で何と言っても日本が一番でした。これには、彼女の作品への特別な思い入れのあるジャーナリスト・宮山幸久氏の多大なご尽力がありました。その後、本国ポーランドは、宮山氏の活動に触発されバダジェフスカの功績を再評価、バダジェフスカを偲ぶイベントが開催されることに繋がりました。
インターネット上のペトルッチ音楽ライブラリー/IMSLPは、著作権の失効した世界中の作品を簡単にダウンロード可能なサイトです。バダジェフスカの作品も12曲が自由に使用できる状態になっています。果たしてどこまでが本来の作品なのか、いささか混乱を招きました。
この度の演奏は、史実に基づき、彼女の作品と明らかにされている曲、「マズルカ~甘い夢」をお届けいたします。